プロフェッショナルって何だ。

『誰かからたった1円でも金を貰って仕事をすることになったら、あなたはその瞬間からその道のプロとして仕事をしなければならない。給料をもらうとはそういうことだ。』

きっかけ

プロフェッショナルって何だ。

社会に出て、環境に恵まれ「プロ」と呼ばれるの現場で働くようになって、このことを繰り返し考えるようになりました。

チームは昨シーズン、プロバスケの最下部リーグで優勝し、無事2部へと昇格することができました。そして今シーズンからは正式にBリーグの一員として試合をしていくにあたり、選手たちはリーグの新人研修とやらを受講したようで、そこでの大きなテーマとなったのが、「プロフェッショナル」について。

私自身研修に行った訳でもなければ、行った選手から詳しく話を聞いた訳でもないので、この研修についてどうこう書くつもりは全くありません。

ただ、研修でこのテーマについて話されていることを知り、自分自身も改めてこれについて考えるきっかけになったので、今回は、今の現場に出て考えるようになったこと、考えざるを得なくなったことについて、文字にしてみようと思いました。

「お金=価値=誰にもできないこと」

冒頭で書いた、

『誰かからたった1円でも金を貰って仕事をすることになったら、あなたはその瞬間からその道のプロとして仕事をしなければならない。給料をもらうとはそういうことだ。』

という言葉は、車に乗っているときに何気なくラジオから流れてきたものです。確か新学期が始まるような時期で、「新入社員に向けた言葉」のようなコーナーの中で流れていた言葉だったと思います。私はこれを聞いた瞬間、携帯のメモに書き残したことを覚えています。

ただ仕事をするのではなく、「プロとして」仕事をする。これってどういうことなのか。そもそもお金を貰うということは、その仕事とそれをする人に価値が付けられているということ。ではその価値って何なのか。

私は「誰にもできないこと(=自分にしかできないこと)」にこそ、価値があると思っています。そしてその「誰にもできないこと」をすることこそ、「プロ」だと思います。

昨シーズン、私はトレーナーだけでなくマネージャーも兼任していました。これがどういうことだったのかと言うと、マネージャーという業務に対してもお金が発生していたということです。マネージャーの業務のほとんどは、言ってしまえば「誰にでもできること」でした(私の偏見からすれば大半のサラリーマンの仕事もそう)。そう思ってしまった時に、お金を貰っている身として、どうやったらこれに価値が付くのかを考えました。

「誰にでもできること」を、その他大勢と同じように、言われたことだけやって、目に見えるとこだけやって、とやっていたら、そこに価値なんてない。しかし、「誰にでもできること」でも、「誰にも真似できないクオリティー」でやれば、そこに価値が生まれる。

「プロチームで働くマネージャー」は腐るほどいる。でも本物の「プロ」のマネージャーはそう多くない。

私はマネージャー専門職ではなかったので、何が正解だったのかはわかりませんが、「誰にでもできること」を、「誰にも真似できないクオリティー」で。ということは常に考えながら業務をしました。

ユニフォームやタオルのたたみ方、準備の速さ、効率の良さ、掃除の綺麗さなど、雑用に関しては本当に些細なことですが、「自分にしかできない」クオリティーでできたと自負しています。

「これ綺麗だな、これすごい見やすいな、これすごいやりやすいな、誰がやったんだろう?」と思った時、「あ、きっとあいつだな」と真っ先に浮かんでくるような人間、仕事には、間違いなく価値があると思うんです。それこそ「あいつにしかできない仕事」なんです。

もし、「誰にでもできる」と思われるような仕事をするなら、これを目指すほかありません。

「プロ」と名乗ること

「プロ」として働くこと。これは、何も「プロ」と名乗らなくてもできることで、サラリーマンや専門職、農家や漁師、どんな職業にだって「プロ」は存在します。

そんな中で、自らを「プロ」と名乗る職業といえば、真っ先に「プロスポーツ選手」が思い浮かぶのではないでしょうか。

「プロ」と名乗ることは、「私は誰にも真似できないことをしています」、「他の誰よりもこれを突き詰めています」、「私はこれを極めています」と宣言しているようなものです。

「プロ」って聞くと、周りの人からは「すごい」と言われる。何か1つを極めるために、多くのことを犠牲にして頑張る姿は、誰にだって格好良く映るものです。

例えば、その道の「プロ」として働くエリートサラリーマンは、自分を紹介する時に「私はプロです」とは言いません。それでもその人をもう少し知っていくと、「あ、この人プロフェッショナルだな」って思う瞬間が必ず垣間見えるものです。

じゃあ逆に、自らを「プロ」と名乗る人たちはどうでしょう。それを見る人々は、始めから「プロ」として見ている訳ですから、その人の本当の内面的な要素や、取り組みを知らずとも「すごい(んだろうな)」という目で見るはずです。

本物の「プロ」はいるのか。

しかし本当に、「プロ選手」ってそんなに「すごい」のか。本当にそれを極めるために他の様々なことを犠牲にできているのか。

私は、そうは思わない。現実、全員がそうではないと言い切ることができる。

技術レベル云々ではなく、「プロ」として仕事に向かう姿勢であったり、メンタリティーの部分が完全に欠落している選手が大勢いると私は思います。結局ハイレベルな戦いになれば、この内面の部分が、技術の向上や勝敗にも直結してくるとも思うのですが。

ここから書くことは、実際に私が、名ばかりだとしても「プロ」と呼ばれるチームで「私はプロです」と高らかに謳う人々の中で働いて思った、等身大の考えです。

昨シーズン私がいたのはリーグ3部のチームであり、「プロリーグ」として階級分けされる中でも最下部のチームでした。今シーズンからは2部の中で戦うことになるのですが、それでも世界でのバスケットボールのレベルで考えれば、そう高くはないレベルの中での戦いです。

それでも「プロ」と呼ばれるチームは数多くあり、その中に「プロ」と名乗る選手も無数にいる訳です。1部にいる選手たちがどういうモチベーションで、どういうメンタリティーで仕事をしているのかは、聞いた話の中でしかわかりませんが、それが2部や3部の選手とは比べ物にならないことは百も承知です。しかし、大体そのスポーツのスタイルや選手のメンタルレベルというのは、草の根のレベルを見れば全体が見えてくるものです。

草の根がしっかり這いつくばって、上を向いていれば、その競技の伸びしろは大きいものになるし、草の根が、光が当たらないからといって腐っていたり、「プロ」という名ばかりに甘んじて上を向くことをやめれば、今はまともに見えていたとしても、競技全体としての成長は自ずとなくなっていきます

実際、下部のレベルがどうであっても、「プロ」としてお金を貰って、その仕事に「価値」を見出してもらっているのです。そしてその価値というのは、コート内だけではなく、コート外でも評価されているはずです(そうあるべきです)。つまり、練習や試合だけするのが仕事ではなく、コート外にいる時間でどれだけ「プロ」として生きれるか、それこそが彼らの仕事だと思います。

これが普通の会社員なら別ですが、「プロ」と名乗ってしまってる訳ですから、こんなこと当たり前です。先ほども言ったように、「プロ」と名乗ることは、「私はこれを極めています」と宣言しているようなものですから、そもそも「プロ」として生きること自体が、自分自身へのハードルであり、課題を課し続けることであると認識する必要があります

「プロ」を目指す時点で、普通であれば「他の全てを犠牲にしてでもこれに懸ける」というメンタリティーが備わっているべきです。しかし、そんな選手は残念ながらごく少数です。ではなぜそんな人たちが「プロ」と名乗って仕事ができてしまうのか。

「プロ」を目指す環境

「プロ」と呼ばれるチームに入ってくる選手たちの多くは、幼少期からその競技に打ち込み、極端に言えば「勉強よりもスポーツ」を優先して育ってきています。朝早くから練習をし、授業中はまともに話を聞かずに爆睡。学校の成績もギリギリでクリアして卒業。こんなのがお決まりのパターンです。

厳しい練習に取り組み、大会でも優秀な成績を残しているから、これでもオーケー。何かを犠牲にして取り組むという、「何か」が、学生時代には勉強になっているのです。周りからはこの何かを犠牲にしてまで競技に打ち込む姿は美学的に映り、応援される。

この環境を全否定はできませんが、私はこのような環境の産物が、まさに本物の「プロ」になれない「プロ選手」だと思うのです。

「プロフェッショナル」とは、文字通りその専門性を高めることにあると思いますが、私が関わってきた「プロ」たちは、「それに長けている」のではなく、「それしかできない」ようになってしまっているように感じます。

練習が死ぬほどきつく、体を休める時間もなく、遊んでる時間もなく、すべてを犠牲にしている感覚があるかもしれないが、それは全て自分が決めて、自分がやっている「好きなこと」

「好きなこと」を一生懸命頑張れば、「嫌いなこと」はやらなくていい

こんなマインドが、いつの間にか選手たちの中に深く根付いてしまっているように思えます。

ずーっと「好きなこと」の枠の中でしか、辛いこと、嫌なことを経験してこなかったから、その枠から外れたところで起こる「嫌なこと」には、とうに耐えられない

このマインドを引っさげて「プロ」のフィールドに来ると、これまで自分が経験してきた以上の努力や、仕事をせざるを得ない状況を目の前にすると、そこから目を逸らす。その時、この「プロ」として必要な努力や仕事は、選手たちの「好きなこと」の枠を超えてしまっているのです。つまり「プロ」として必要なことがそもそも見えていないのです。

本物の「プロ」がひしめき合う現場は、全員が全員、常に上を目指し、自分には何が必要か考え、それに向けた努力の仕方を考え、努力することを怠らない。そんな選手があふれている(はず)。

「プロ」と名乗っているのに、それに価値を見出され、お金までもらっているのに、まだ「好きなこと」しかできない。こんなのはただのわがままです。

「アスリートはわがままであれ」とよく言うけれど、この「わがまま」とは、「好きなこと」だけやりゃいい、ということではなく、「目標に貪欲であれ」とか「勝利に貪欲であれ」ということだと思うんです。この「わがまま」の中には、ただの「自分勝手」ではなく、目標や勝利のためには他のすべてをなぎ倒してでも。という強い意志が含まれているはずです。そのためには「嫌なこと」でも何でもやるしかないんです。

今の現場で言うならば、セルフケアや、きついフィールドトレーニングや、面倒くさい怪我予防のプログラムや、ドーピングや脳震盪の講習や、栄養についての講座や、月に何度もあるイベントだって、選手にとっては「嫌なこと」、「やりたくないこと」かもしれません。でもそんなことも、長期的に見れば「プロ」としての自分を成長させることになるし、自分の内面を育てたり、環境を整えたりすることは、「プロ」としてその道を究めるためには必要なことです。

それを、いつになっても文句ばかり言って、質を下げて、周りの価値まで下げて。そんな選手たちにリスペクトも何もありません。

「それしかできない」プロ選手

私が見てきた多くの「プロ」たちは、「それに長けている」のではなく、「それしかできない」ような選手たちです。

このような「プロ選手」を生み出す原因としては、先ほど挙げたようなプロを目指す環境が大きく影響していると思います(もちろんその環境に甘んじる選手個人も)。

最近、「日本版NCAA」の編制についてしばしば聞くことがありますが、本物の「プロ」を育てる土壌としても私はこれに賛同したいです。NCAAのシステムを熟知しているかと問われれば全くそうではないのですが、学業とスポーツの両立という点では、是非とも参考にしたいところです。

NCAAの大学においては、スポーツ推薦で入学してきたような選手に対しても、学業成績のボーダーラインが課され、それをクリアできなければ退部もしくは退学を強いられるというシステムが存在します。

つまり、先ほどの話で言えば、「好きなこと」だけやっていればいいのではなく、「嫌いなこと」にも取り組まなければ、「好きなこと」にも精進できなくなる。ということです。

そういった学生たちは、きっと時間がない中でも、勉強する時間を見つけ、効率の良い学び方を見つけようとする。そうしたベクトルは、自ずとスポーツへの取り組みにも影響し、やみくもにやるだけでなく、自分を客観視して、自分に合った努力の仕方を学び、それを継続する力が身に付いていく。

「嫌いなこと」でも自分のためだと思ってやらなくてはいけない。このことがわかっている選手は、強い。これこそレジリエンスです。こういった背景は、「それしかできない」プロ選手なんて生み出さない。

日本人アスリートはその文化的背景や、学生時代のスポ根教育によって強いレジリエンスが備わっていると聞くことがあります。でもこのレジリエンスも、「好きなこと」の枠の中だけでの話であって、社会で生き抜く、「プロ」として生きるためのレジリエンスは、海外のアスリートの方が持ち合わせていると思います(日本の下部リーグにくるような外国籍選手はまた別ですが…)。

社会で戦う力

「プロ」の引退後のキャリアに目を向けると、「それしかできない」ように育った選手たちのツケが見えてきます。最近、プロ選手の再就職や引退後をサポートする企業が増えているようですが、それにも理由があると思います。

なぜ、サポートがなければ引退後のキャリアを作れないのか。それは、勉強してこなかったからに他ありません。受験もせずに学校に入り、学内の勉強もろくにせず、「好きなこと」「得意なこと」だけやって「プロ」の世界に入る。そして、名ばかりの「プロ」としてキャリアを終える。そんな選手たちは、せいぜいまた居心地の良い「好きなこと」の枠の中で、コーチなりフロントなりに加わることが精一杯です。そうやって就いた次の職でも、その道の「プロ」として仕事をするプライドもなければ頭もない。

勉強をするということは、社会で戦う第一歩だと私は思っています。スポーツのようなある種クローズな世界ではなく、勉強は言葉と文字が書ければ誰だってできるし、全世界共通の基準で評価することができます。勉強「だけ」が全てではないことはもちろんわかっていますが、「良い大学に行った人」「一流企業に入った人」は、みな勉強という一番大きなフィールドで戦い抜いた人です(中にはコネやスポーツだけで行った人もいますが)。

勉強や受験は、長期間自分と向き合い、目標に向けたプロセスを学び、自分なりの努力の仕方を学び、そして人間力をも高める時間だと思います。その経験は、後に大きな壁にぶつかった時、「嫌なこと」と真っ向から対峙しなくてはならない時、耐え抜き攻略するレジリエンスに繋がるものです。

だからこそ、就職活動には「学歴フィルター」が確かに存在する。これはもうしょうがないことです。「勉強ができる」「勉強をしてきた」ということは、社会において大きな大きな担保になってしまうのです。「東大がなんだ」「一流大学がなんだ」「頑張る才能があるだけだ」「俺は頑張ってもできない」「頭が良くたって」、そんな声は往々にして聞かれますが、こういう人たちは、目標とちゃんと向き合えていないし、努力の仕方がわかってない。ただ努力するだけ、ただ頑張るだけ。こんなことは誰だってできる訳です。結局「嫌なこと」から知らず知らずに逃げてしまっているのです。

「勉強してこなかった」、「嫌なこと」と向き合ってこなかった、名ばかりの「プロ選手」だってそうです。何でもかんでも近道しようとする。自分を客観視できずに、目標までのプロセスを描けない、努力の仕方が間違っている選手は多くいます。そういう選手に限って、外部の情報にフラフラと振り回されたり、一流選手の真似をすればいいと思っていたり

勉強をしてこなかった、それが容認されていた環境にいた人は、可哀そうだし、何よりダサい。細くて、薄くて、浅い。

「勉強」から学ぶことは計り知れないほど大きいです。さらには、高いレベルでスポーツと学業の両立をしてきた人は、いろんな意味で強いと思います。一番大きな社会というフィールドで戦ってきたからこそ、その内側にあるクローズな「プロフェッショナル」というフィールドでの戦い方がわかっていて、極め方がわかっていて、価値の見出し方がわかっていて、お金のもらい方がわかっているんだと思います…。

「簡単に選択できる、厳しい道」

「それしかできない」、「それしかやってこなかった」選手にとっては、「プロ」の世界に入るということは正に「簡単に選択できる、厳しい道」です(「厳しい道」であることを認識できている選手は少ない気がしますが)。

こういう選手たちは大抵、大学を卒業する時にこれ以外の選択肢がないんです。みな見た目は良くしたいと思っていますから、そんなに良くない企業には入りたくはない。でも就職活動も自分にとっては「嫌なこと」で「面倒くさいこと」だから、できればやりたくない。

そうなると残るは、「好きなこと」だけやっていればいい、それでお金がもらえる「プロ」の世界です。都合の良い消去法で決めた将来なんぞ、たまらなく簡単な選択です。きっとこの人たちは、本当に「好きなことだけやっていればいい」と思っているんだと思います。だから、「プロ」と名乗るということの責任が理解できていない、立派な「名ばかりのプロ」が育っていくんです。

「プロ」の世界に入れば、今までは「自分にしかできないこと」だったとしても、「誰にでもできること」になってしまうことの方が多い。「誰にでもできること」には価値なんてない。まずはこの現実に気づくことができるかどうか。

そして、「誰にでもできること」を、「誰にも真似できないクオリティー」でやるか、新たに「自分にしかできないこと」を作り上げるか。そのための「厳しい道」に足を踏み入れる覚悟ができるか、だと思います。

「プロ」になることは、本当だったらそんなに簡単じゃないはず。宣言なんてする必要もないのに、わざわざ「プロ」と名乗るぐらいだったら、やることやんなきゃダメでしょ。

「好きなこと」の枠の中を飛び出して、「嫌なこと」にも自ら手を伸ばし続ける。そして勝利や成長の過程の中で1つの「嫌なこと」が次第に「好きなこと」の枠の中に取り込まれていく。するとまた別の「嫌なこと」に向き合わなければならないと気づく。これを永遠と繰り返すことできっと、努力を厭わない、努力を努力と思わない「プロ」へと成長していくんだと思います。

その道を極めるということは、実に地道で厳しいことです。さらには「プロ」と名乗って仕事をするということは、それをさらに厳しくするはずです。「プロ」になるとはそういうことだと思います。

選手がコートの中にいる時間は、1日の中のほんの微々たる時間です。その時間、目に見えるときに頑張るのなんて当たり前。光の当たる瞬間をもっと良いものにするために、多くの時間を割かなくてはならないのはコートの外での話です。「プロ」という肩書きに甘んじて、「好きなこと」だけ、目に見えることだけするのか、肩書なんかじゃなく、その道を極める本物の「プロ」として、多くのことと向き合えるのか。0か100か、だと思います。

私は…

『「あなたの価値は、自分と一緒に過ごす人々の平均値で決まる。」とよく言われます。自分に刺激を与えてくれる人と一緒に過ごすということは、自分に才能があることや、一生懸命に仕事に取り組むことと同じぐらい大切です。尊敬する人たちが、自分のサークルの一部になるのです。自分の尊敬する人たちと出会い、彼らから学べることはとても大きなメリットになります。【ハーバード大卒、Dropboxの設立者:Drew Houston氏】』

これは、私が大切にしている言葉の1つです。

私のしているトレーナーという仕事は、選手やチームがなければ成り立たない仕事です。このブログの名前にもあるように、私は自分自身の仕事を、「選手/チームの夢や目標に乗っかる」仕事だと思っています。

そして私自身の目標は、「世界一でかい夢に乗っかる」ことです。そして、素晴らしいコミュニティの中で、自分が尊敬してやまない選手やスタッフに囲まれながら、世界一でかい夢・目標を達成したい。きっとそんなコミュニティの中で仕事をする時間は、自分にとってかけがえのない時間であり、常に刺激を受け、自分を向上させてくれる。上の言葉を使うなら、自分の価値を間違いなく高めてくれる。

もちろん、ただ口を開けて待っているだけでは、この目標は達成できません。でかい夢に乗っかるためには、それだけの力(知識や技術)を付けなければいけませんし、相当な時間もかかるかもしれません。しかし言い方を変えれば、私たちの仕事は、自分が頑張れば頑張るほど、でかい夢に乗るチャンスは訪れるということです。選手生命と違い、私たちには限界はありません。学び続けることで必ずチャンスはやってくると信じています。

自分を成長させてくれる環境に身を置くためにも、「プロ」としてその道を極めなければならない。そういったメンタリティーを絶えず持ち続けなければならない。自分が今の環境にいるという所以もまた、必ずある訳で、そんなコミュニティから抜け出すべきだと思うなら、自分がレベルアップして次のステージに行くか、自分が周りの平均値を押し上げるしかないんです。

「あなたの価値は、自分と一緒に過ごす人々の平均値で決まる。」

この言葉は、良い意味でも、悪い意味でも核心をとらえていると思います。自分が進み続けたいのなら、とうに歩みを止めた奴らとは一緒にいるべきではない。自分にとって都合の良いだけの、居心地の良さを求めていたら、周りに足を引っ張られていくだけだ。

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  1. やりがい、とあれこれ。 – Get on to your DREAM

    […] どんな場面でも、まず自分がその道の「プロフェッショナル」として、一つのことに対して磨きをかけ、常に質を求めて仕事をしていく。自分にしかできないことを突き詰めていく(→プロフェッショナルって何だ。)。そうした姿勢は必ずや誰かの目に届くはず。そしてそれを見て「何か」を感じる人だって少なからずいるはずです。その自分自身の行動こそが“種”であり、チームにカルチャーを植え付けるきっかけになるのです。 […]

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  2. スポーツの価値 – Get on to your DREAM

    […] アスリート教育(プロフェッショナルって何だ。)についてもそうですが、今の私の力ではどうにもないものだったとしても、気付いたんだったら、引っ掛かったんだったら、考え続ける責任があるし、劇的な変化は起こせずとも、目の前の事から変えていけるものはいくらでもある。 […]

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  3. 再びの遠回り – Get on to your DREAM

    […] ちょうどその時期、私はプロ選手を相手に仕事をしている中で、「プロって何だろう。」「何でプロスポーツに価値が見い出されるんだろう。」と多く考え、目の前の「プロ」という光景に疑念を覚え始めていました(→プロフェッショナルって何だ。)。そんな中、膨らんでしまうチームへの疑念に嫌気がさし、2年目でチームを去ろうとするものの、結局当初の予定通り最後の3年目を迎えることになります(→辞めなかった理由、やる理由。)。 […]

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