メディカルに関わる決断において、コーチングスタッフが口を挟むべきではない。
最近身の回りで色々あって、これについて自分でも考えていたタイミングで、丁度よく興味深い調査結果がリリースされました。
共通認識のもと、それぞれの専門分野に徹するのが理想
「コーチングスタッフ(テクニカルスタッフ)による意見が、メディカルに関わる決断においても大きな影響力を持っている。」と言われています。これ、悪く言えば、メディカルに口を挟んでくるコーチがいるということです。
アメフト関係のトレーナーさんの多くがこの記事をシェアしていたこともあって、自分の目にも届いたのですが、この調査の背景には、過去に報告された熱中症(→横紋筋融解症)による死亡事故の裏で、コーチングスタッフによるこうした“power”が働いていたことが挙げられ、私個人的には、脳震盪に関する復帰過程でのコーチの介入や、先日のNBAファイナルであったgolden stateの2選手の、二次的に起こったであろう大怪我に関しても考えが及ぶところだなと感じています(これについては様々な意見がありますが、この回で論じることは避けておきます…)。
システム化されたアメリカからこのような声が聞かれるのは、自分にとっては非常に驚きで(おそらく自分が無知なだけだった)、コーチングスタッフがメディカルに口を挟んでくるというのは、日本において多く聞かれる話かと思っていました。
日本における古典的な「スポ根指導」は、それこそ熱中症の死亡事故や体罰問題が取り沙汰されてから減ったように思えますが、「スポ根指導」の背景にある、「俺の時代にはこんなの当たり前だった」とか「俺はこうしてきた」とか「俺の知っているやつはこうしていた」とかいう、「根拠のない経験則」はスポーツの指導現場における様々な場面で、未だ根強く残っていると感じます。そしてこのようなコーチは大抵、メディカルな分野までこの「根拠のない経験則」を持ち込んでくるのが仕舞いです。
現代のスポーツ現場における様々なアクションや意思決定は、選手・コーチングスタッフ(テクニカルスタッフ)・メディカルスタッフそれぞれの考えの一致点でもって遂行されます(べきであると思っている)。この三者間の共通認識があって初めて、チームや選手が動くのであって、意思決定においてはこの中のどのピースも欠けてはなりません。

そのため、意思決定に先立って、三者がディスカッションを行うことはmustであり、例えば怪我からの復帰に関してであれば、選手から「時間がかかっても良いからできるだけ大事にいきたい」とか「なるべく直近の試合には出れるようにしたい」などという意見が出て、コーチングスタッフからは「この試合には出てほしい」とか「無理をさせずに次の試合に備えてほしい」とか、これらを受けてメディカルスタッフからは「直近の試合に出るのは可能かもしれないが、これくらいのリスクがある」とか「時間はかかるがこのプランでいけば長期的には良い結果になるだろう」とかいう意見を出し合うのが自然だと思います。
そして、三者それぞれが「ここは絶対に譲れない」というラインを持ち、その中で落としどころを決めていく必要がある訳です。この過程をもって、もしかすると選手寄りの決断になるかもしれないし、コーチ寄りになるかもしれない。はたまた大きな怪我であればメディカル寄りの決断になることだってある。しかしどのような形になったとしても、落とし所は三者の一致範囲でなくてはなりません。

綿密なディスカッションによって共通理解が得られ、三者の意見の一致範囲の中で全体のプランを決定し、それぞれが共通するゴールを目指し、専門分野に徹していくことは、責任の所在を明らかにすることにも繋がります。少しドライな話になってしまいますが、もしプランが上手くいかなかったとき、その責任を誰が負うのか、あるいはどのような責任分配になるかをはっきりさせるということは、この仕事をしていく上で非常に重要なことでもあります。
“power”を持ったコーチが、「経験則」を振りかざす
「コーチングスタッフがメディカルの決断に口を挟む」ということは、意思決定の前のディスカッションの場面を言っているのではなく、「これでいこう」となってプランを実行している途中で、コーチがそれに耐えられなくなって、メディカルスタッフがいないところで選手にプランを揺るがすような助言をする、ということです。
厄介なことに、この三者(選手、コーチ、メディカル)の中で一番“power”を持っているのがコーチングスタッフであることが多いです。そうなると、メディカルスタッフの目が届かないところで選手がコーチからなにかを言われたら、Yesと言わざるを得ないという状況があるというのも、容易に想像できるでしょう。メディカルスタッフであれば、そういうコーチに向けてしっかりと物を言うべきなのですが、やはりそうもいかないことも現実的には多くあります。
コーチングスタッフが、メディカルスタッフに対して意見をすること自体を悪いと言っているわけではありません。むしろそうした意見交換は、チームビルドのために必要なことでもあります。ただ、目の届かないところで、とか、「あいつ(メディカルスタッフ)の言っていることは間違っているから俺の指示通りにしろ」というような言動をするとかは、また別の話で、意見をするならディスカッションの場で納得いくまで議論すれば良いわけです。
こう考えると、コーチングスタッフとメディカルスタッフの間(時には選手も直接含めて)でのコミュニケーションと、互いの信頼関係は、チームの意思決定を下していく上で非常に重要な要素であることがわかります。
そもそもの信頼関係がなかったり、共通認識が得られていない状況で決まった方針の中では、何か重大な分岐点に差し掛かったとしても、誰一人決断する勇気を持つものもいなければ、責任を負うべきものも現れない、なんてことも起こりうるだろう。

コーチは「経験則」でモノを言う生き物
我々メディカルスタッフは、テクニカルな事柄に関しては一切口を出してはいけない。例え自分がその競技に精通していたとしてもだ。
これはコーチングスタッフに関しても同様であるべきで、コーチはメディカルに関しては口を出してはいけない。それが例え、自分の経験したことのある事例だとしても。実際に自分が見てきた実体験があったとしてもだ。
「コーチは自身のスポーツ経験を基に指導を一般化することが多い。(2)」

この文献の中で、このやり方を否定的に捉えている訳ではありません。しかし、これはあくまでコーチングに限ったことで、我々メディカルスタッフに当てはめられることではありません。
「経験を基に指導を一般化」してしまうことは、我々のやることではないと思います。この考えを「第一に」指導を行っていては、自分の経験したことの枠の中でしか、選手に還元できることがない。
自身の成功体験が、今所属しているチーム、今目の前にいる選手にも同じように当てはまるとは限りません。自分がしてきた経験は、今いる環境と全く同じ環境で起こったことなのか?全く同じ人間に起こったことなのか?全く同じ発生要因で、全く同じ過程を踏んで起こったことなのか?
自分が成功したものは、良いもの。
自分が失敗したものは、悪いもの。
強いチームがやっていることは、良いこと。
弱いチームのやっていることは、悪いこと。
現役時代活躍していた指導者の言うことは、正しいこと。
現役時代活躍できなかった指導者の言うことは、間違ったこと。
…そうではない。
もしかすると、コーチング(競技のテクニカルな部分)に関しては、そうであることもあるのかもしれません。しかし少なくとも我々は、このような目でモノを見てはいけない。我々は、経験をヒントとして使いながら、今向かい合っているモノを、一度は疑って、噛み砕き、積み上げていくことで、自分の理解の範疇に取り入れていくべきであって、「経験則のみ」に頼ることは、ただの近道でしかありません。
他人の経験は、あくまで他人のモノ
少し話が広がってしまいますが、この「経験則」の考えは、我々スタッフだけに言えることではなく、選手自身にも大きく関わっていると私は思います。
NBAで初の台湾系アメリカ人(両親が台湾人)プレーヤーとなったジェレミー・リンの話です。

2017-18シーズンの開幕戦で、膝蓋腱の断裂という大怪我を負ったジェレミー・リン(当時ネッツ所属)。怪我のあと、復帰してもこれまでの状態には戻れないのでは、と周囲は不安を漏らしていました。
特に大怪我を負った選手は、過去に同じ怪我をして復帰していった選手に、リハビリなどのアドバイスを求めることが多い。これは私自身も現場にいて感じることです(別にこれが悪いことではない)。
しかし彼は、同じように膝蓋腱の怪我を負った他の選手が、どのようにして復帰したかについては興味を持たず、自分の回復のプロセスに集中したいと語ったそうです。
「まあ正直なところ、僕はこの怪我を負った他の選手たちとは本当に話していないんだ。傲慢なやり方をしたいという意味ではない。彼らが100%の状態に戻ったとか戻らなかったとか言う議論に関して、ただの彼らの経験だけでモノを決めるのが好きじゃないんだ。それは彼らのことで、彼らの身体のことだ。誰かの、その他のプロセスは、僕にとっては本当に気にならないんだ。」
大怪我、そしてこれから待ち受ける長期離脱とリハビリ。周囲の不安もそれを表すように、決して楽な道ではないということは、彼自身もわかっていたと思います。
そんな中でも、他人の経験はあくまで他人のモノとして、経験則に頼ろうとせず、厳しいベクトルを自分自身に向ける、一番に向き合うべきは自分自身だとしっかり理解している。
怪我と向き合う時間は、選手にとって一番辛い時間かもしれない。それと同時に、この期間に何を考え、何をするのかは、その人の真の人間力を表すと、私は思っています。
ですから、この下を向きたくなる時期、誰かに助けを求めたくなる時期に、まず始めに自分自身にベクトルを向けることのできる彼は、本当にすごいと思います。
プロ=今ある環境で最大のパフォーマンスを出す
話は元に戻りますが、そもそもコーチングスタッフとメディカルスタッフは別物な訳で、それぞれの分野はそれぞれに任せれば良い。正に、「餅は餅屋」です。
「口を挟む」と言うような表現を使ってしまうような横槍の意見は、やっぱりするべきではありません。まずは自分の専門分野を極める。そして必要に応じて別の専門家と意見を出しあって、共通範囲を模索していく。これがチームのあるべき姿です。
専門性を極めることは、その道のプロとして仕事をすると言うこと。プロとして、自分が今いる場所がどんな環境であろうと、自分の専門性を高め、自分にしかできないクオリティーを追求するとうことは、金をもらって(そのチームの置かれる環境(ソフト面でもハード面でも)を理解した上で契約をして)仕事をするものとして当たり前のことです。
今ある限られた環境の中で最大のパフォーマンスを出す。
「粗悪な環境だから、これまでの環境とは違うから、ここでは自分のパフォーマンスが出しきれない。たとえ上手くいかなかったとしても私の責任ではない。」こんなのはただの言い訳。上手くいかなかったときの保険を掛けているだけだと思います。
たとえ今ある環境で出せる最高のパフォーマンスが、自分のキャパの6割7割ぐらいだとしても、そのレベルを100として突き詰めていくしかないことだってあります。それだったら、ただの100を質の高いぶっとい100にすれば良いだけです。
ある種、これは妥協かもしれません。しかし、状況や環境に応じて取捨選択を強いられることだってあります。そのとき何を優先し何に目をつぶるのか。勇気ある決断を繰り返すことも、大事な能力のひとつです。
環境のせいにして、試行錯誤もする気のない指導者は、よっぽどの実力がない限りはいずれ使われなくなる。
環境が悪くても、その中で何とか良いものを、もっと良いものをと考え続けていれば、自分が恵まれた環境に行ったとき、自分のできることは飛躍的に多くなるはずだ。
自分が経験してきた(環境が整った)プロフェッショナルな現場でしか、プロとして仕事ができない人間は、本物のプロとは言えない。
自身の経験だけをベースにしている指導者は、たとえ輝かしい経歴を持っていたとしても、本物のプロじゃない。
そんな人間に、自分の専門性を高める気もない人間に、知りもしない分野に経験則で横槍を入れてくるような人間に、こっちが積み上げてきたものを、簡単にちゃぶ台返しされるなんて御免だ。
残念ながら、経験則でしかモノを言わない指導者に、日本のスポーツを託していては、未来は明るいとは言えない。
…等身大の考えでした。
1)https://www.espn.com/espn/otl/story/_/id/27048906/survey-ncaa-coaches-clout-concerns-trainers
2)Cliff Mallett:Quality, Coaching, Learning and Coach Development. スポーツ教育学研究, 2011;Vol.30, No.2:51-62
[…] これについては、以前に書いたブログ(NO MORE 経験則)の中でも十分に論じてきたが、自分の内側からではなく、本という外界から同じことに目を向けることで、考えが確信に変わる感覚があった。 […]
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[…] 正に、経験則を振りかざす指導者について書いた回(NO MORE 経験則)とリンクする。「強いところがやっていることは正しい。」「弱いところがやっていることは間違っている。」こういう、見かけでしか判断できない、一生かかっても真意に辿り着けない可哀想な人間である。 […]
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