『嫌われる勇気』より

「哲学っぽさ」を求めて。

①:「哲学っぽさ」を求めて①

②:「哲学っぽさ」を求めて②

③:「哲学っぽさ」を求めて③

嫌われる勇気

「与えられたものをどう使うか」、「いま、ここ」にどんな意味付けをするか。過去や環境に固執する生き方は、上手くいかなかったときの免罪符をこしらえているに過ぎず、ただの言い訳である。

「その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえている(p27)」

「本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。(p82)」

「わたしの仕事がうまくいかないのは、あの上司のせいなのだ。」そう語る人は「うまくいかない仕事」への口実として、上司の存在を持ち出している。~できない自分を認めたくないから、嫌な上司を作り出す。(p149)」

「経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与えられる意味によって自らを決定するのである。(p30)」

「「Aさんのことを嫌いになる」という目的が先にあって、その目的にかなった欠点をあとから見つけ出しているのです。(p119)」

「問題は「なにがあったか」ではなく、「どう解釈したか」である(p37)」

「他者から与えられた答えはしょせん対症療法にすぎず、なんの価値もありません。(p40)」

「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。(p44)」

「仕事を通じて他者から批判され、叱責されること、お前には能力がないのだ、この仕事に向いていないのだと無能の烙印を押されること、かけがえのない「わたし」の尊厳を傷つけられることが嫌なのです。(p113)」

「「もしも何々だったら」と可能性のなかに生きているうちは、変わることはできません。~やらないことによって「やればできる」という可能性を残していきたいのです。~時間さえあればできる、環境さえ整えばできる、自分にはその才能があるのだ、という可能性のなかに生きていたいのです。(p55)」

「「わたし」と権威を結びつけることによって、あたかも「わたし」が優れているかのように見せかけている。~権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。(p87)」

「自らの劣等コンプレックスを言葉や態度で表明する人、「AだからBできない」と言っている人は、Aさえなければ、わたしは有能であり価値があるのだ、と言外に暗示しているのです。(p84)」

「「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。だったら、「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。(p228)」

「欠如した部分を、どのようにして補償していくか。(p85)」

「『神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ』(p229)」

「人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。~チョークで引かれた実線を拡大鏡で覗いてみると、線だと思っていたものが連続する小さな点であることがわかります。線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。(p264)」

「悪いのはわたしではなく、過去であり環境なのだと。ここで持ち出される過去は、まさしく免罪符であり、人生の嘘に他なりません。直線のように見える過去の生は、あなたが「変えない」という不断の決心を繰り返してきた結果、直線に映っているだけにすぎません。(p272)」


「自分の物差し」でもって、自分の信じる道を行けばいい。他人がどうであるか、他人からどう思われるかなど、関係ない。他者からの承認欲求を求めることは、他者の人生を生きることと同じである。

「不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。~自分の不幸を武器に、相手を支配しようとする。自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、周囲の人々―たとえば家族や友人―を心配させ、その言動を束縛し、支配しようとしている。~自らの不幸を「特別」であるための武器として使っている限り、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。(p90)」

「健全な劣等感とは。他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。(p92)」

「賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」という、誤ったライフスタイルです。ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。(p134)」

「われわれは見返りを求めてもいけないし、そこに縛られてもいけません。(p154)」

「『自分が自分のために自分の人生を生きないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるのだろうか』~究極的には「わたし」のことを考えて生きている。そう考えてはいけない理由はありません。(p135)」

「他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。(p135)」

「ほめてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは縦の関係に従属し、「自分には能力がない」と認めているのと同じなのです。ほめることは「能力のある人が、能力のない人い下す評価」なのですから。(p203)」

「「ほめること」の背後には、上下関係、縦の関係があります。人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」なのです。(p198)」

「承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようで、実際には自分のことしか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。~他者によく思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着に他なりません。(p183)」

「自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまいます。こうした人たちにとって他者とは、「わたしのためになにかをしてくれる人」でしかありません。(p185)」

「他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。自分の人生を、他人任せにしているのですから。(p157)」

「他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。(p159)」

「他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。(p163)」

「もしも周りに10人の他者がいたなら、嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。そうしておけば、当座のところは誰からも嫌われずに済みます。しかしこのとき、大きな矛盾が待っています。~できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになります。(p158)」

「ほめられるということは、他者から「よい」と評価を受けているわけです。そして、その行為が「よい」のか「悪い」のかを決めるのは、他者の物差しです。もしもほめてもらうことを望むのなら、他者の物差しに合わせ、自らの自由にブレーキをかけるしかありません。一方、「ありがとう」は評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉です。人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。~他者から「よい」と評価されても、貢献できたとは感じない。(p205)」

「自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。これは自らに嘘をつく生き方であるともいえます。~一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自らに嘘をつくものではありません。(p227)」


変わるのはその人自身であり、他者がそれを強制することはできない。わたしがすべきことは「介入」ではなく、その人を信頼して、いざという時に手を伸ばせるように「援助」をすることである。

「誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。(p141)」

「『馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない』(p143)」

「介入にならない「援助」をする必要があります。~自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかけるのです。~横の関係に基づく援助のことを「勇気づけ」と呼んでいます。(p202)」

「課題に立ち向かうのは本人ですし、その決心をするのも本人です。(p202)」

「もっとも大切なのは、子どもが窮地に陥ったとき、素直に親に相談しようと思えるか、普段からそれだけの信頼関係を築けているか、になります。(p144)」

「相手のことを信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。そこの線引きをしないままに自分の希望を押しつけると、たちまち「介入」になってしまいます。たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。(p145)」

「信頼とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えずに、無条件に信じる。それが信頼です。(p231)」

「あなたはいま、「誰かを無条件に信頼したところで、裏切られるだけだ」と思っている。しかし、裏切るのか裏切らないかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいのです。「相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう」というのは、担保や条件に基づく信用(≠信頼)の関係でしかありません。」

「介入の背後にあるのも、じつは縦の関係なのです。対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。介入によって、相手を望ましい方向に導こうとする。自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。(p200)」

「介入が繰り返された結果、子どもはなにも学ばなくなり、人生のタスクに立ち向かう勇気がくじかれることになります。~困難に直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう。(p154)」

「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。(p150)」


他者や外界に変化を求めるのではなく、「まずは自分が変わる」。自分が変われば、意図しないうちに自分の周りが変わっていくかもしれない。自分が「いま、ここ」を一生懸命に生き、自分の信じる道を「より良く、もっと良く」していくことが一番の他者貢献になる、心からそう信じて、やり続けること。

「「このままのわたし」であり続けていれば、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。~「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。~変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」(p52)」

「一歩前に踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。いま享受している楽しみ―たとえば遊びや趣味の時間―を犠牲にしてまで、変わりたくない。(p83)」

「わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できるところではない。~私の変化に伴って相手が変わることはあります。多くの場合、変わらざるをえないでしょう。でも、それが目的ではないし、変わらない可能性だってある。(p168)」

「どれほど困難だと思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。たとえ最終的にハサミで断ち切ることになっても、まずは向かい合う。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。(p117)」

「もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。(p194)」

「意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。~場の空気を読んで縦の関係に従属することは、自身の責任を回避しようとする、無責任な行為です。(p215)」

「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、あなたには関係ない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。(p212)」

「「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。(p281)」

「人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。~「いま、ここ」が充実していれば、それでいいのです。(p266)」

「「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きです。~「過程そのものを、結果と見なすような動き」(p268)」

「人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。(p271)」

「自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。~所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。~なにかを与えてこそ、自らの居場所を得ることができるのです。(p188)」

「人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。~つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。(p206)」

「自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。(p147)」

「あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的にはわかりえない。つまり他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。(p252)」

「人は自分を好きになりたい。自分には価値があるのだと思いたい。そのためには「わたしは誰かの役に立っている」という貢献感がほしい。そして貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めているのです。~貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望みどおりの人生を歩まざるをえません。承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。(p254)」

「仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。それが「他者貢献」です。他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではありません。他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人は、「社会に過度に適応した人」である。~他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。(p238)」


「生き方まで変わるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、言われています。~あなたはまだお若い。それだけ人生の早い時期に学び、早く変われる可能性があるわけです。早く変われるという意味においてあなたは、世の大人たちより前を歩いている。自分を変え、新しい世界をつくっていくために、ある意味ではわたしよりも前を歩いている。道に迷ってもいいし、ブレてもいい。縦の関係に従属することなく、嫌われることを怖れないで、自由に進めばいいのです。(p244)」


岸見 一郎, 古賀 史健:嫌われる勇気—自己啓発の源流「アドラー」の教え—. ダイヤモンド社, 2013

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