「哲学っぽさ」を求めて②

われわれは見返りを求めてもいけないし、そこに縛られてもいけません。(p154

他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。(p135

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。(p147

他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。自分の人生を他人任せにしているのですから。(p157)

もしも周りに10人の他者がいたなら、嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。そうしておけば、当座のところは誰からも嫌われずに済みます。しかしこのとき、大きな矛盾が待っています。~できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けてしまうことになります。(p158

②

我々の仕事において、「ありがとう」「あなたのお陰」と言われること、選手やチームから承認されることを求め、それをやりがいや目的とするのは間違っている。

私がやっている仕事は、サービス業ではない。これは、私が初めて現場に出てからずっと、念頭に置いている言葉である。トレーナーという仕事は、選手やチームがあって初めて成り立つものである。我々は、乗り込める船が無ければ目標を立てることさえできない

故に、トレーナーという(特にスポーツ現場で働く)職業についてよく知らない知人からは、よく「マッサージしてあげる人でしょ?」とか「選手の面倒見てあげる人でしょ?」と言われる。周りからはこういうイメージを持たれることが非常に多いが、周りが思う分には、どうでもいい。

確かに、形態的には「誰かに何かをする仕事」であり「選手に何かをする仕事」であるかもしれない。だが決して、「誰かに何かを“してあげる”仕事」ではない。「選手に何かを“してあげる”仕事」ではない

“してあげる”という姿勢の先にあるのは、「サービス業」であり、「選手が喜ぶことをする」、「選手が求めていることは何でもする」というふざけた考えである。

そして「選手が喜ぶことをする」という考えの先にあるのは、「選手がNoと言うことはしない」、「選手に嫌がられることはしない」という甘い考えである。仕事をする我々自身が、もし“してあげる”仕事として取り組んでいるとしたら、それは間違いである。

強くなるためには、好きなことの枠を飛び出して、嫌なことにも取り組まなければいけない。例えばそれが、きついトレーニングであるかもしれないし、つまらない予防プログラムかもしれないし、おいしくない栄養摂取かもしれない。でも、そんな自分にとって嫌なことに手を伸ばしていかなければ、嫌なことも「好きなこと」の枠の中に取り込んでいかなければ、決して今より強くはなれないし、「プロ」の世界ではただの「可もなく不可もない」選手になるだけである。

選手が求めることだけをする。おそらくそうすれば、選手からは「ありがとう」とか、「よくなった」とか言われるだろう。しかし、その時選手がしてほしいことが、正解とは限らないし、その場だけの「気持ちよかった」、「楽になった」が、本当の意味でその選手のためになっているとは限らない。大事な試合の前や、何としてでもやらなくてはいけないという状況を除いては、選手に寄り添い、本当にその選手のためを思うなら、辛かろうが、めんどくさがろうが、嫌がられようが、長期的に良くなる方法を選択するべきである。

「他者から与えられた答えはしょせん対症療法に過ぎず、なんの価値もありません。」

選手にとっても、トレーナーにとっても、外見でも内見でも、まさにそれは対症療法である。「やってほしい」に「やってあげる」で答える関係では、結局何年経っても本当の改善は見られず、気付いたときには、ずーっと同じことをやり続けて一年経っている、そんなことになるであろう。一年間、「ありがとう」、「楽になった」を繰り返すということは、裏を返せば、一年間、同じ痛みを繰り返し、同じ訴えを受け続けていることに他ならない。それは間違いなく我々のするべき仕事ではない。

そんな“サービストレーナー”にとっては、選手から「ありがとう」と言われることが、周りから承認されることが、“やりがい”であり目的で、「強くなること」や「勝つこと」は、表面上の目標に過ぎないのだ。そんな人間は、黙って治療院でも開いて、口開けて、何の価値もない「ありがとう」を待っていればいい。少なくとも我々の世界では、心からの感謝とは、「自分のため」に全力で動き、戦う者の姿から、気付かないうちに自然と湧き出すようなものであるから。

認められること、感謝されることを第一の目的とする人間は、いざという時、「誰からも信じられない人間」になる。

「ありがとう」と言われたい、感謝されることを第一に求めてこの仕事をする。それは同時に、その道の専門家である「プロ」として、この仕事に取り組む姿勢にも霧をかけることにもなる。

どこかに痛みを訴える選手がいるとすれば、その選手のバックグラウンドを把握し、現時点で出来得る評価をしてはじめて、こちらの療法を処方する、というのがあるべき手順である。しかし、“サービストレーナー”にとっては、今目の前にいる痛みは、ただ「そこにある痛み」に過ぎず、「そいつが今選手を苦しめている原因だ」とでも思うのが末だ

その痛みがどのような機序で、本当の原因がどこにあるのかを考える必要もないのだ。だから、もしもその痛みが長引いていたとしても、自分のなかで試行錯誤する必要もなく、ただただ毎日「そこにある痛み」を「取ってあげる」に過ぎない

本当にその怪我や痛みを改善させるという、長い道のりに足を踏み出そうとせず、目の前にある「認められたい」という自分のエゴを叶えるために、毎日毎日同じことを繰り返すことしかできない。こんなのははたから見れば、「怪我を治す」「コンディションをあげる」ということに関して、「できるよ、できるよ」、「やってあげるよ」と言って、本当の改善は得られないという、まさにできないことを「できる」と嘘をつき続けているとしか思えない。

我々は店を構え、そこに定期的に選手がやって来るのではない。毎日毎日、時間を共有し、一番にその身体をわかっているはずだ。だからこそ、ミクロを精査した上でもっとマクロなビジョンで物事を見なくてはならない。

本来であればそんな集団の中では、“サービストレーナー”の必要性なんぞ皆無である。そんなトレーナーが生き残れる現場があるとすれば、そこにはただ、「我々に“サービス”を求める選手」がいるということに過ぎない。まともな集団だとするならば、“やってあげる”精神のトレーナーの、チームや選手に同調するだけの表面上の目的や目標は、何らかの形で見抜かれ、自然とその周りからは人がいなくなる。そして気付いた頃には誰からも信じられなくなっている。

そもそも、“やってあげる”精神のトレーナーたちは、必要な専門知識さえ十分に身に付けていないことも多い。だって、その人に必要なのは、絶対的な知識や技術じゃなくて、人から好かれるという、平和ボケした人間力だけだから。

知識・技術と人間力、もちろん両方大切で、人と関わる我々の仕事にとっては、両方“必要”なものである。しかし、どちらかが不十分になることはあってはならないし、況してや、知識・技術の不足を、見せかけの「人間力」で包み隠そうとすることなど、断じて許されないことである。

私が信頼できる人。

私が信頼できる人、それは間違いなく「他者の期待を満たすように生きる人」ではない。こちらに気を使って、すり寄ってくるような、同情してくるような人間ではない。例えそれがその人にとっての善だとしても。

先日、私の大学の同期で、卒業後すぐにドイツに渡り向こうで理学療法士になるために勉強をしている友人が3年ぶりに日本に帰ってきていた。その友人は、大学時代から、「思い立ったらすぐ行動」、「良いとされているものはすぐ実践」、そんな、よく言えば行動力のある、悪く言えば見切り発車が得意な奴であった。

そして、見切り発車して到着した先で、実際はどうかなんて関係なく、あたかも大きな「何かを得た」かのように帰ってくるのだ。よく知らない人から見れば、ただのミーハーのように思われるのかもしれないが、彼の良いところは、これを、どんな物事に対しても一貫した姿勢で貫いているところだった。誰にでもできることでも、それを一貫して極めることで、その道の「プロ」になる。まさに彼の行動力は、彼にしかできないことであった

だから、彼が卒業後いち早くドイツに渡ったことは、私たちトレーナーの同期たちにとっては、何の驚きも無かったし、きっとまた「何かを得て」、充実した感を出して戻ってくるのだろうと、楽しみにしていた。しかし、3年ぶりに帰ってきた彼が私たちに語ったのは、何とも彼の口から出るとは思えないような、弱気な言葉の数々であった。

彼は、「行ってみたらそうでもなかった」「結局目標の場所に行っても自分のやりたいことができるかわからない」「当初の目標じゃなくても十分に食っていけそう」「向こうにいても成長できている気がしない」「日本にいるみんなの方が先をいっている」、こんなことばかり言っていた。

私は実際ドイツのトレーナー(向こうではフィジオ:理学療法士)を取り囲む環境がどうであるかは知らないが、彼は、最初に抱いていた印象や期待とのギャップに打ちのめされ、彼だからこそ、本当にやっちゃうんじゃないかって周りが思えるようなデカい目標に、挑戦することさえ諦めようとしていた

何だかそんな彼の姿を見るのが、私はなんだか寂しかったし、残念でもあった。その場にいた他の同期もそう思っていただろう。どんな環境に飛び込んでも、何かしら得たように、得たかのように戻ってきてくれる彼の姿さえ、そこにはなかった。

そんな彼に対して、優しい言葉(甘い言葉)をかける奴は、誰一人いなかった。彼自身、もしかしたら壁にぶち当たった自分に、労いの言葉や「行っただけですごいよ」「よく頑張ったよ」、そう声を掛けてくれることを心のどこかで望んでいたのかもしれないが、そんなことは誰一人、しなかった。私の信頼できるこのコミュニティには、「他者の期待を満たすように生きる」人間、トレーナーは一人もいない。

目標にたどり着けないんじゃないかと思い、環境がそうさせてくれないんだ。お前らの方がいい時間を過ごしている。そうやって、挑戦しないための言い訳をこしらえて帰ってきた彼に対して、私たちは、「本当のお前でいろ。」、そういうことを伝えたに過ぎない。

もともと彼が持っているモノがあれば、挑戦することなんて簡単に見えるくらいだった。絶対彼なら大丈夫なはずなんだ。みんなそう思っている。挑戦して、もがいてもがいて、本当にダメなら戻ってくればいい。でも、でっかい壁にビビって、考える必要もないことまで考えて、「見切り発車」しないなんて、彼じゃない。私たちのコミュニティを引っ張ってくれていた彼じゃない。

私たちがそんなことをバーっと彼に言っているとき、彼はほとんど黙っていただけだったけど、絶対に彼なりに意味付けをしてくれたはずだ。きっと、次に帰ってくるときには、本当に成し遂げたかどうかは問題じゃなく、間違いなく「何かを得た」感を出して戻ってくることだろう。

同情や無駄な寄り添い、それは「優しさ」でも「いい人」でもない。無責任なだけだ。

私は今回、この友人の帰国で、久々に集まったコミュニティの中で、やはり信頼できるのはこいつらだと、確信した。同じ釜の飯を食った奴らが、スポーツ・健康という土壌の元で、それぞれの芽を育てている。

みんながみんな、これでもかと自分と向き合い、それが反射してとてつもない光を周りに与えている。同じコミュニティにいる、同じ世代の集団を挙げたら、右に出るものはいない。「他の誰でもなく、俺がやるんだ。」みんながそう思っている。いずれ、ふと気付いたときに「俺ら」になっていたら、それもまた楽しそうだ。


承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようで、実際には自分のことしか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。~他者によく思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着に他なりません。(p183

自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまいます。こうした人たちにとって他者とは、「わたしのためになにかをしてくれる人」でしかありません。(p185

「やってほしい」選手と「やってあげる」トレーナー、お互いにお互いが「わたしのために何かをしてくれる人」に過ぎない。

まさに「見かけの忠誠心」とでも言えよう。

何でも「やってもらう」ことだと勘違いしている選手も、何でも「やってあげる」ことが良いと思っているトレーナー、そんな選手から出る「ありがとう」、「あなたのお陰」という言葉も、そんなトレーナーから出る「治してあげる」、「良くしてあげる」という言葉も、何の価値もない

結局、両者とも心底自分の快感やわがままのために行動しているに過ぎず、もしもこの間でミスが起こったとしたら、真っ先にお互いにお互いのことを指差すだろう。

「お前がやってくれなかったからだ」、「俺がこんだけやってあげたのに」と。

あるべき姿は、自分のために「やる」選手と、自分のために「やる」トレーナーである。そこに他者中心の「やってあげる」は存在しない。


誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。(p141)

『馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない。』(p143)

他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。(p150

課題に立ち向かうのは本人ですし、その決心をするのも本人です。(p202)

我々のやるべきことに、「手を取って引っ張っていく」ような、“感触”はいらない。

「やってあげる」を否定したとき、「じゃあお前は何のためにいんの?」と言われたことがある。

その時はうまく言語化できなかったかもしれないが、今思う私の答えはまさにこれだ。

『馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない。』

選手に対して、我々は選択肢を与えることができるが、それを無理矢理選択させることはできない。それは我々の仕事ではない。それは、「選手(=他者)の課題」であり、何を選択するかは選手の仕事であるからだ。

リハビリをやるのかやらないのか、セルフケアをやるのかやらないのか、正しい栄養摂取をするのかしないのか、トレーニングをするのかしないのか。そしてこれらを、しっかりやるのか、テキトーにやるのか、誰も見ていないときでもやるのか、誰か見ていないとやらないのか。

「じゃあ、やらない」と選択したことで、最終的に損するのは選手自身である。我々は根拠に基づいて適切な説明を行った上で、「さあ、どうする?」と選択肢を与える。

見方によっては、「用意したものをちゃんとやらせるまでが仕事でしょ」そう思う人もいるかもしれないが、選手自身が手を伸ばそうとしない課題に対して、「やらせる」あるいは「やってあげる」をしたところで、結局それは誰のためにもならない。その場しのぎの対症療法を繰り返すだけである。

自分自身と向き合おうとせず、自分にとって都合の悪いことは「他者の課題」と思い込むことで、「自分の課題」に立ち向かわない、そんな選手にできることはゼロだ。ましてや、プロと名乗っている人間が、まず始めに周りにベクトルを向けること自体間違っている

我々がやるべきことは、必死に自分自身と向き合ってもがく選手に、あと一歩踏み出すヒントやトリガーを与えることである。いざというときに、一番の助けとなるために、そっと、寄り添い続けることである。ひたすらに準備をしておくことである。

そこに、わざわざ「手を取って引っ張っていく」ような、『無理矢理水を呑ませる』ような、“感触”は必要ないのだ。もしもその“感触”を必要としているとしたら、それは「やってあげる」精神が生む、ひたすらに他者からの承認(「ありがとう」と言われること)を求める“サービストレーナー”への第一歩である。

私は以前このブログで「選手(馬)の道行く先に“エサ”をまくのが仕事であり、それを食うか食わないかを決めるのは選手自身」と書いた(やりがい、とあれこれ。)。

その時は、“COACH”のロゴの話から話を広げたので、馬に与える“エサ”として、我々が与える選択肢を表現したが、言わんとしていたことは、まさにこの本に書いてあることである。それ故、この一文を見たときにはゾッとした感覚と同時に、自分の構築した思考は間違いではない、と思うことができた。

「チームの課題」は、いったい誰の課題か。

少し抽象的な話になる。

「チームの課題」。それはまさに「自分の課題」でもあり、そこに属する自分以外の「他者の課題」でもあるのではないか?

「世界一デカい夢や目標に“乗っかる”こと」が私の目標である。選手やチームがなければ、その目標は抱くことさえできない。だからこそ「チームの目標」、「選手の目標」が「自分の目標」でもあり、夢でもある

仮に、チームの目標が「楽しむこと」だったとしたら、私はその目標には乗っからないであろう。「チームの課題」を「自分の課題」と思えるからこそ、そこに属している意味があるわけで、そこに賛同できないのであれば、その組織には属さない方が良い。

チームに属している以上(チーム関係者、その家族、スポンサー、ファンなどそこに関わる者すべて)、「チームの課題」を「自分の課題」として考えなければならない。このことはつまり、自分以外のチームに属する他者もまた、「チームの課題」という同じ課題を共有していることになる。

目の前の課題が誰の課題なのかを考えるときは、その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰かを考えればいい、と言う。

チームの最終的な目標(=チームの課題)が実現したとき、喜びを感じるのは誰か。また実現しなかったとき、悔しさを感じるのは誰か。他でもなく、それは自分自身であり、そこに属する全員である。この結末を自分のものとして受け入れられないのであれば、そこに属している意味はない。これは、私が身を持って感じたことであり、今私がここに居続ける理由でもある(辞めなかった理由、やる理由。)。

そう考えたとき、チームという組織のなかでは、完全に「自分の課題」と分離された「他者の課題」など存在しないのではないか、そう思った。

他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。

確かに、同じチームの中でも、選手には選手の、コーチングスタッフにはコーチングスタッフの、メディカルスタッフにはメディカルスタッフの、社員には社員の、スポンサーにはスポンサーの、ファンにはファンの、「自分がやるべきこと」「自分にしかできない」ことが必ずある。その上で、チームにおける自分の専門分野を、自らで突き詰め、全うするのは、金をもらって仕事をする上で当たり前のことである。

だからこそ、たとえチームの内部からであっても、「その人にしかできないこと」や「その人がやるべきこと」に他者が干渉することは正しいことではない

いくつもの「自分にしかできないこと」が集まってできているのが“プロ”という組織。そして、それぞれの「自分にしかできないこと」は全て、たったひとつの「チームの課題」を達成するために行われる

仮に、チームに属する自分以外の他者が、その人にとっての「やるべきこと」を行わなかったら、それによって「チームの課題」を達成することが困難になる可能性だってあり、その結末を受けるのはその人だけではなく、自分も含めたチームに属する人間全員になる

繰り返し言うように、例えば私が選手に技術的なことを言ったりとか、競技についてのコーチングの仕方にケチをつけたりすることは、「やるべきこと」を「どうやるか」に口を出していることになり、自分にはどうにもできない「他者の課題」への介入に他ならないが、

そうではなくて、そもそも、与えられた「やるべきこと」をやるかやらないかだったり、もっと内側の部分(取り組む姿勢だったり、動機であったり、気持ちであったり)に関して、「お前、それは間違ってるだろ」と言うことは、介入とは言えないと思う。だって、お前がちゃんと仕事に向き合わないことで、被害を受けるのはお前だけじゃないんだから。ちゃんとやってもらわないと困ることがたくさんあるんだから。

もしかすると、著者の意図するところとは違って、私の考えが至らないだけかもしれないが、私は、チームに属することで、「課題の共有」とでも言おうか、「チームの課題」という大きなビジョンを通して「他者の課題」を見たとき、それを一概に単なる他人事として見ることはできないのではないかと思ってしまう。

だからこそ私は、「チームの課題」としての理念や目標を共有し、そこに至るために「自分の課題」にしっかりと向き合い続けなければいけない。「自分の課題」と真摯に向き合うことが、「チームの課題」の達成に繋がり、それは“結果として”「他者の課題」をも解決することに繋がるのだから。それこそ、私のやるべきことであると強く感じる。

③へ続く:「哲学っぽさ」を求めて③

①:「哲学っぽさ」を求めて①


岸見 一郎, 古賀 史健:嫌われる勇気—自己啓発の源流「アドラー」の教え—. ダイヤモンド社, 2013

 

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