当たり前のように自分の周りにあったスポーツや運動が、当たり前に享受できなくなってしまった今、改めて自分の人生はスポーツなくして成り立たないものなのだと痛感しました(もちろん職業柄当たり前ではあるけれど)。
新しく就くことが決まったチームも、個人事業も、トレーニングジムも、お気に入りのNBAも、すべてこれまで通りはいかなくなってしまっています。
そんな今だからこそ、普段から常々考えている“つもり”だった「スポーツの価値を享受する」ことについて、再考してみようと思いました。
スポーツの価値とフィジカル・リテラシー
「スポーツの価値」ついて考えるには、「Physical Literacy:フィジカル・リテラシー」という言葉を無視することはできません。
フィジカル・リテラシーという言葉は、「人生において身体活動の価値を尊重し、責任を持って関与するための動機づけ、自信、運動有能感そして理解」と定義されている概念です(1)。(国際フィジカル・リテラシー協会:International Physical Literacy Association)
残念ながら、日本においてはフィジカル・リテラシーについての定訳がない(2,3)ということもあり、若干日本語にすると違和感がありますが、そもそも「リテラシー:Literacy」とは、社会における様々な事柄について「適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する(できる・能力)」という意味の言葉(2)。
要するに、「フィジカル・リテラシーがある人」とは、スポーツの価値を理解し、自らが享受し、それを周りに伝播することができる人、「スポーツをモノにしている人」なのだと思います。

*定義や文献などと互換し説明しやすくするため、以後「身体活動」・「運動」・「スポーツ」を同義として扱っています。
スポーツの価値の“中核”
元々の定義に立ち返っても、「スポーツの価値を尊重し、理解する」ことがフィジカル・リテラシーを知る第一歩となりそうです。
それじゃあ、いったいスポーツの何に価値があるのか…

ここでは、あえて「フィジカル・リテラシーという概念が普及していない(→定訳がない)」我が国のスポーツの捉え方を引き合いに出して考えてみます。
「身体活動の効果」と言われたとき、大半の人々は「健康にいい」や「リフレッシュになる」と言ったことが頭に浮かぶと思います。こういった“いわゆる”「身体運動の効果」については何の疑いもなく、運動をする動機づけとしてキーとなる要素だと思っています。
スポーツ庁(4)としても「スポーツの価値」として、スポーツを「する」ことによる健康寿命の延長など「身体運動の効果」について触れていますが、
そんな中で、大多数が想像するような“いわゆる”の「身体運動の効果」ではなく、そのさらに奥にある「スポーツの価値の中核」は、スポーツを「する」ことで得られる「楽しさ」や「喜び」であるとしています。
「スポーツの“楽しさ”や“喜び”こそが、スポーツの価値の中核」
何とも含みを持たせた、そして自分にとってはグッとくるような言葉だと思いました。
しかしどうでしょう。そう思えるのは、私がスポーツを「する」人間だったからに他ならないのかもしれない。この文章をよくよく考えれば、スポーツを「する」人以外は「スポーツの価値の中核」にはたどり着けないと言われているような気がしてしまいます…。
スポーツをすることによって「健康になる」ということにももちろん価値があり、それを運動の動機とするのもまた素晴らしいことですが、国がその「価値の中核」とまで言うような、「楽しさ」や「喜び」自体に価値を見出し、スポーツに参画している人は一体どれほどいるのでしょうか。

「スポーツの価値の中核」に触れることのできる人を増やさずして、「スポーツはみんなのもの」(4)と言う事はできるのでしょうか。
享受できる人、そうでない人
NBAのクリーブランドで働いていらっしゃった中山佑介さんがこんなTweetをしていました。
『人々の歓喜を目にしたとき、自分が外国人であることを13年間のアメリカ生活の中で一番実感した。彼らの心からの喜びを心から嬉しく思い、そして羨ましく思ったのである。スポーツは垣根を超えるが、文化の深さは別物なのだと。』(中山佑介さん@yusuke_0323: https://twitter.com/yusuke_0323?s=09)

(引用された投稿→https://twitter.com/cavs/status/1245455900120428545)
動画に映る彼ら―「する」彼らだけでなく、「見る」彼ら、「支える」彼ら―は、間違いなくスポーツの「楽しさ」や「喜び」を存分に感じながらスポーツの価値を享受している。どうして、「する」状態にない彼らが、あそこまで「楽しさ」や「喜び」を感じることができるのだろうか…「スポーツの価値の中核」に触れることができるのだろうか。
スポーツ場面、試合の解説や実況、選手のアクションの中には、外国と日本では明らかに“差”があり、仮に日本人が外国人みたいにリアクションをする姿を見たら、違和感さえ感じてしまいます。
中山さんが言う、「羨ましい」という言葉にはハッとしました。
「する」人間であるからこそ、自分は「スポーツの価値を“最大限”享受できている」と思っていましたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。スポーツの価値を全身で感じることのできる彼らを見るとき、私は間違いなく「いいなぁ」「素晴らしいなぁ」と、羨ましさを持っていました。
私たちの大半が考えるであろう、「スポーツが健康にもたらす効果を理解し、実践する」ことは、身体活動を行う上で非常に大切なことです。しかしこのことは、スポーツが我々に与えてくれる価値の中の、ごく一部でしかないのです。
そうとは知りながらも、なぜ我々は「スポーツの価値の中核」にたどり着けないのでしょうか。それができている人々を「羨ましい」と思ってしまうのでしょうか。
一生かけてスポーツと関わる
「スポーツの価値の中核」にたどり着くため、もう少し深い部分と向き合う必要がありそうです…。
「フィジカル・リテラシー」の概念が構築されていったのは、カナダで「アスリートの長期育成:Long-Term Athlete Development(LTAD)」に関する論文(5)が発表された頃からと言われており(3)、欧米諸国はこれを受けて、フィジカル・リテラシー向上の基礎にLTADの概念を据えています。(現在はより広義的なLong-Term Development in Sport and Physical Activityという名称になっている。(下図))

この概念の中では、フィジカル・リテラシーの向上は、アスリート育成だけでなく、生涯スポーツの普及にも寄与するとされています(6)。
また別の文献(7)では、フィジカル・リテラシーのある人は、関連性のある概念や原理をあらゆるパフォーマンスに適用できる、と言われています。
過大解釈にはなりますが、このアイデアは、「スポーツとの関わりによって得た経験や考え方は、生涯における様々な場面で応用できる」と言うことはできないでしょうか(私はそう信じています)。

スポーツを通じて、様々な経験や心の中に芽生える感情が、どれだけ「価値あるもの」であったかと、人生のあらゆる場面で気付かされます。
人生において、今自分が向かい合っている困難に対して、スポーツは既に答えを出しているのかもしれない。あの時たどったプロセスが、問題解決のための考え方が、人生におけるタスクを解決してくれることがあるに違いない。
幼少期にスポーツを「する」ことできっかけを作り、スポーツと関わる時間が長ければ長いほど、それだけ多くの些細な気持ちの変化や身体の変化、周囲の変化に気付ける機会は増え、それがいずれ「自分にとっての価値」になってくれる。
実はスポーツを通じて感じる「楽しさ」や「喜び」も、スポーツの中の困難や葛藤、問題解決へのプロセスを乗り越えるからこそ感じられるものであって、その価値は意図して得られるものではないのだと感じます。
スポーツを通じて何を楽しいと思い、何を嬉しいと思い、何を悔しいと思い、何を失敗と捉えるのかは人によってそれぞれですが、スポーツに取り組むすべての人がその「価値」を経験しているのです。
スポーツを「する」ことに始まり、その過程で意図せずして“結果として”得られる「楽しさ」や「喜び」という価値。もしかすると、「健康」という効果も、“結果として”得られるというのが、健全な姿なのかもしれません。

「見る」ことも「支える」ことも、「する」ことの一部
スポーツの価値は、「する」ことによってこそ最大限享受できる(4)。
だとすれば、スポーツを「する」ことに対する、健全な動機づけとは何なのでしょうか。
欧米諸国で受け入れられている「アスリートの長期育成:LTAD」の考えとフィジカル・リテラシーの概念。この概念のもとでは、競技力を向上させるためのアスリート育成と、生涯スポーツの普及という2つゴールへのプロセスは、この概念によって根本的にリンクしています。
つまり、アスリートにとっても、スポーツ愛好家にとっても、子供にとっても、大人にとっても、スポーツは一生涯を通じて「そこにあるもの」なのです(LTAD:図)。

元の定義とは矛盾してしまいますが、フィジカル・リテラシーの概念の上では、本来的には「スポーツをする目的」など必要ないのかもしれません。ただ食事や睡眠と同じように、自然と行うものの一つと捉えているのであれば、そこに特別な理由など無くてもいいのかもしれません。
もちろん、フィジカル・リテラシーの向上の第一歩となるのは、スポーツを「する」ことに他なりません。この、スポーツと関わった経験があるからこそ、勝ったときの喜びや、負けたときの悔しさを、「自分のことのように」感じられるのです。
「自分のことのように」感じることができる。
この感覚に陥るとき、きっと人はそのスポーツを「見る」でもなく「支える」でもなく、自分自身が「する」という気持ちでいるのかもしれません。
スポーツに関わるという経験は、その人を「スポーツに参加させ続ける」のかもしれない。フィジカル・リテラシーという“文化”は、それに関わる人々に「する」という意識を植え付けてくれるのではないでしょうか。
「見る」ことも、「支える」ことも、「する」ことの一部。
こう考えると、中山さんの言った言葉にも、繋がってくるような気がします。だから彼らは、自ら「する」ことによってスポーツの価値を最大限享受できているのかもしれません。

それと反対に、「する」ことが一番とは言っておきながらも、「見る」、「支える」のように、スポーツと関わる“形”を示したがる我々。
“意図して”別の括りにするというこの性質は、我々を「スポーツの価値の中核」から遠ざけているのかもしれません…
彼らは「一緒に戦うアスリート」を見て“リスペクト”し、我々は「別の世界にいるアスリート」を見て“特別扱い”する。彼らは自分のことのように「一緒に」喜び、我々はあくまで他人事として「すごい」で終わってしまう…。
スポーツとしての教育、教育としてのスポーツ
スポーツ文化の草の根を見てみると、この問いの答えに近づける気がしました。
日本の子供達にとって、スポーツと関わる最初の場面の多くが学校であり、中学からは運動部活動として、スポーツと関わる現場が設けられています。この「運動部活動のシステム」こそが我々のスポーツ文化のバックボーンであり、この文化は諸外国と比べても突出して大規模であると言われています(8)。

運動部活動は、学習課程外の課外活動として位置付けられているのですが、その多くが人間形成という教育的な目的を念頭に置いており、総じて教育活動としての意味合いが強いと言われています(上表)。
しかし、教育的な意味合いを掲げておきながらも、運動部活動の多くは、その取り組みの過熱化や「勝利至上主義」でもって多くの対抗試合に参加している現状があります。
諸外国においては、青少年がスポーツを行う中心的な場所は、学校ではなく地域社会(スポーツクラブやスポーツ少年団といった)であることが多いと言われており(上図)、その指導目的も、初めから「競技力向上」を目指しています。
また、部活動であっても、競技能力によって部員を選抜して少数に限って活動、指導は外部コーチが行うことも多いと言います。こうして、純粋な競技力向上のためのスポーツへの取り組みが行われています。

我が国においても、何度かこの教育的側面と競技的側面の二面性を持った(持たされた)スポーツとしての運動部活動に疑問が投げられ、「教育でもありスポーツでもあった部活動を、純粋なスポーツ組織にする」道筋も示されましたが(日本におけるスポーツ少年団発展はこれの流れ)、結局は行き詰まりを見せ、大局的に見て運動部活動は学校内に留まり続けています(8)。
結局、曖昧な上にさらに限定された環境の中で行われる「運動部活動」は、多くが教育課程と同時にここで完結してしまいます。スポーツの土台において、あえて「教育」という目標をこしらえることで、皮肉にも本来純粋にスポーツと向き合うことで享受できるはずの、“結果としての”教育(スポーツの価値)から遠ざかっているような気がしてなりません。

諸外国と日本との間のこうしたスポーツの“取っ掛かり”の環境の違いが、スポーツ文化の発展に大きな差を生んでいることは明白です。
そもそも、諸外国(特に欧米になるが)においては、「スポーツに関わり、人生を豊かにする」という基本的な概念が根付いた上での青少年スポーツの成り立ちであり、この時点ですでに「競技スポーツ」とは別に、「生涯スポーツ」として運動に関わっている人々が別軸で大勢存在しているのです。
その中で仮に、競技に参加する過程で更なる高みを目指さなくなったとしても、自分にあったレベルで競技を続けるか、健康のためにスポーツと関わり続けるか、それとも別の関わり方をするのか、といった道筋を示しており、参加の形が変わっても、スポーツと関わり続けることによって変わらず「スポーツの価値」を享受できるという概念(6)が構築されています。

結局、スポーツに参加し、何を思い、何を感じ、そこから何を学ぶかは本人次第なのです。それは強制されるべきものではないし、意図して得られるものでもないのです。
こうして「スポーツに教育的側面を見出だす」ことはできても、「教育にスポーツ的側面を見出だす」ことは容易ではないのです。
「あるもの」に意味付けをするのではなく、何か目的をこしらえないと実践できないこの性質こそが、あらゆる場面で共通する我々の文化なのかもしれない。スポーツの価値とは、その「中核」とは、他者や環境に“意図されて”享受できるものではないのかもしれない。
意図せずして「する」か、意図して「見る」「支える」か。
意図せずして学ぶのか、意図して学べないか。

スポーツの価値は、みんなのもの

「スポーツを「する」ことによって感じられる“楽しさ”や“喜び”こそが、スポーツの価値の中核である。」
考えれば考えるほど、この言葉は素晴らしくもあり、また同時にますます排他的にも聞こえてしまう。
彼らはなぜ、スポーツの価値を全身で享受することができているのだろうか。それは、自分自身がスポーツを「している(する)」感覚にあるからである。スポーツを「する」ことが、スポーツの価値を最大限享受する唯一の方法だとするならば、彼らは間違いなくそれを実践している。
まるで「自分のことのように感じる」こと。そうすることでまた、その瞬間にも、スポーツを「する」人々は、スポーツを通して何にも代え難い感情を生み出し、考え、学び、それを生かしていくことができる。自分だけのフィジカル・リテラシーを持って。
こうやって彼らのように考えることができるのは、実際に「する」文化があるからなのかもしれません。
しかし、「文化」で片付けるのはあまりにも簡単すぎる…
そこには明らかに背景の違いがあって、彼らの中に根付いていて我々の中にないものが確かにあります。彼らのことを「羨ましい」と思わなくなる日は遠い先かもしれない。
それでも、国の“偉い人”は、「スポーツの価値」そして「中核」とまで言いながら、その中にある素晴らしさをわかっているに違いない。少なくとも実際に言語化され、こうして解釈できるという事は、そのエッセンスは間違いなく含まれているということです。
我々が文化として「スポーツの価値の中核」に触れるには、多くのチャレンジを要するかもしれません。しかし必ず、誰もが自分なりの解釈でスポーツを「する」立場となり、その中に「楽しさ」や「喜び」といった価値を見出し、それを共有し広めていくことができるはずなんです。
スポーツは、人々が「する」立場に入ることを決して拒まないはずだ。例え自分が活躍していないとしても、フィールドに立っていないとしても、ベンチに入っていないとしても、客席にいるとしても、テレビの前にいるとしても、見ていないとしても。
スポーツはみんなのもの。スポーツを「する」みんなのものだから。
実践者であることが、「スポーツの価値」を享受する第一歩
私は、これまでスポーツと関わり、向かい合うことで、多くの考えを巡らせ、葛藤し、学んできました。またそれと同時に、多くの快感や感動をスポーツから与えられてきました。そのすべてが私にとっての「スポーツの価値」です。
まずは私自身が、スポーツの価値を理解し、自らが存分にそれを享受し、それを周りに伝播できる人間であるべきだという事を忘れてはいけない。そのためには、様々な意味で自分がスポーツを「する」人間であること。参加者であること。実践者であること。
「スポーツの価値」は何なのか。それは確かにわかっている。しかし、それをより多くの人が享受できるようになるには、まだまだたくさんのプロセスを踏む必要がある。
アスリート教育(プロフェッショナルって何だ。)についてもそうですが、今の私の力ではどうにもないものだったとしても、気付いたんだったら、引っ掛かったんだったら、考え続ける責任があるし、劇的な変化は起こせずとも、目の前の事から変えていけるものはいくらでもある。
自分が、そうした姿勢を貫き、一番の「実践者」であり続けることで、自分と関わるアスリートや人々が、何かを感じ取ってくれるかもしれない。スポーツを通して人生の糧を手に入れてくれるかもしれない。私を通して「スポーツの価値」を感じてくれるかもしれない。
自分がスポーツの価値を理解していなければ、人に理解させることはできない。自分がスポーツの価値を享受できなければ、人に享受させることはできない。
このテーマを書いていて、最初に中学時代の恩師を思い出しました。
人を応援するときは「頑張れじゃない」、「頑張ろう」だ。
先生は常々こう言っていました。
人を動かすならまず自分が動く。人にやらせるならまず自分がやる。人を頑張らせるならまず自分が頑張る。自分が指導者となった今でも大切にしている考えです。
人生においても、キャリアにおいても、まずは自分が「する」人間であること、「実践者」であることが、最初にやらなきゃいけないことなのかもしれません。そうすることで見えてくるものは必ずある。得られる価値は必ずある。与えられる価値は必ずある。
指導者たるもの実践者であれ。
そして、実践者として、「する」者として、フィジカル・リテラシーを有するものであれ。
それがスポーツと関わるものとしての責任ではないだろうか。
1)国際フィジカル・リテラシー協会:https://www.physical-literacy.org.uk/
2)独立行政法人日本スポーツ振興センター:スポーツと地域活性化のための政策形成支援ニュースレター「INSIGHT」. 2017/1;(5)
3)早乙女 誉, S. Nicole CR:アスリート教育と学校教育におけるフィジカル・リテラシーの役割と重要性-カナダの事例と日本での応用可能性-. スポーツ産業学研究, 2018;28(2):141-148
4)文部科学省:スポーツ庁・第2期スポーツ基本計画
5)I.Balyi:Sport System Building and Long-term Athlete Development in British Columbia. Canada. Sports Med BC, 2001
6)I.Balyi, R.Way, et al:Long-Term Development in Sport and Physical Activity. Sport for life. Canada, 2019
7)L.David, M.Bryan:Improving Physical Performance Through Instructional Models. Strength and Conditioning Journal, 2018;40(4):40-47
8)中澤 篤史:学校運動部活動研究の動向・課題・展望:スポーツと教育の日本特殊的関係の探求に向けて. 一橋大学スポーツ研究, 2011;30:31-42
[…] 試合を決めるその瞬間に、ピッチに立っていないとしても、「練習での取り組みが」「あの戦術が」「あの一声が」「あの集客法が」「あのキャンペーンが」「あのリハビリが」「あのトレーニングが」「あの応援が」「あの叱咤が」、と、“自分の仕事が”この勝利に繋がっていると、心の底から思えるのであれば、それは全員が“プレー”しているも同然なのです。そこに、 “する”も“見る”も“支える”もないのです。(スポーツの価値) […]
いいねいいね