オーストラリアの大学院に入り講義が始まってから早4ヶ月が経ち、2週間ほどのセメスターブレイクを終えて、先週から2ndセメスターが始まりました。
コースワークということで、与えられる課題の多さなどはある程度覚悟していましたが、はるかに予想を超える量と求められる質に絶望しながら、常に半泣きで過ごした約3ヶ月は自分に大切なことをRemindさせてくれました…
完全にOverwhelmed
1stセメスターでは、いわば“これまで習ってきたことを英語で学び直す”ような講義が揃っていたのですが、運動生理学、リサーチメソッド、データ統計、バイオメカニクス等すべての講義で、これまでいかに自分が“知った気になっていたか”を痛感しました。
ただでさえ、講義に加えて、1週間で大量の論文を読まなくてはならないのに(Required readingは最大で1週間25本を超えた週もありました。)、進めていくにつれ、「あれ、これ何だっけ?」がいくつも出てきて、その度に昔の教科書や別の文献を当たらなければならず、余計に時間を使っていました。
実際、仕事の質や講義以外の勉強時間が全く取れないという現状だったので、今セメスターは履修するユニットの数を少し減らし、一つひとつの学びの質を向上しつつ、前セメスターの復習をしっかり行っていきたいと思っています。
“知らないことすら知らない”恐怖
最初のセメスターでの絶望を受け、“知った気になっていた”ことに気付けたと同時に、“知らないことすら知らない”ということの恐怖を改めて感じました。
おそらく私は、この課程に入っていなくとも、“ある程度”の知識でトレーナーとして食っていけてしまっただろうと思います。もちろん自ら学び、現場で仮説-検証を繰り返すことには変わりないですが、その学びも、自分の想像の範囲を超えることはなかったでしょう。
実際、これまでの現場ではそれで十分だったのかもしれませんが、今思うとよりBetterな方法やアプローチは、実は数多くあったのかもしれないと感じます。
今の私の課程にいる学生のほとんどが、私と同じようにすでに現場で働いているS&Cコーチやフィジオの方ばかりですが、セメスターを終えたとき、私と同じように「自分の想像を超える学びの場であった」と発言する(Discussion boardという講義ごとの掲示板がある)方が多くいました。
幸い私は火炙りの刑にされることはありませんでしたが、Discussionの中で、自分が正しいと思って現場でやっていることを根こそぎ否定される方もいたりして(方法そのものよりもBetterを突き詰めない姿勢を)、その方の気持ちを考えると何とも複雑な気持ちになりました…
“これで十分だ”、“これは間違いない”、そう思って、実際に処方していた理論やアプローチが、もはやBetterではないのかもしれないと気づくことは、自ら知識をアップデートしている中でもしばしば起こることではありますが、何より恐ろしいのは、“疑いの目”さえも持っていなかったことに気付かされることだと思いました。
目新しいものを求めているのではない
おそらくここにいるS&Cコーチの方々はみな、少なからず“もっと学びを深めたい”という気持ちがあって、この課程に入っていることだろうと思います。すでにお客からお金をもらってプロとして働いているコーチたちが、このような学びの場に集まるということは、それだけでも刺激になります。
そんな学び舎の中で、我々が本当に必要としているものは、目新しいトレーニング方法や、Fancyなメソッドなどではなく、すでに実践している知識や技術を徹底的に疑うことなのかもしれません。これによって“知った気になっていたことに気付く瞬間”は、私たちにとって、あまりに重くそして同時に価値のある時間だと感じました。
今では、履修の際にシラバスを見て、“すでに知っていることを英語で学び直す”レベルだなと一瞬でも思った自分を心から叱咤したい…。ネームバリューでモノを見たくはありませんが、(高い金を払って)ちゃんとした大学院に入って、ちゃんとした教授から学ぶきっかけ、自分を疑うきっかけを与えられることは、十分すぎるほど価値のある時間だと感じています。
無知なときほど“知ってる気”になる
“知った気になっていた”と気付くこと、“知らないことすら知らなかった”と思い知らされることは、一見ネガティブに思えるかもしれませんが、しっかり学びを得ている証拠であるとも捉えることができます。
よく用いられる例ですが、自分が実際に「知っていること」を中心の円、その円の外側はすべて自分が「知らないこと」、そしてその境目となる円の円周(フチ)を自分が「知らないと認識できる範囲(知らないということを知っている範囲)」とします。

皮肉にも、自分が“知っていること”が少ない状態の時ほど、“知らないこと”も少ないと錯覚し、すべてを“知ってる気になる”ということです。
簡単に手に入る情報、型にはまった“メソッド”、経験則。それらの型にはまっていたとすれば、自分はすべてを知っていると錯覚し、知らないことにすら気付かなくなってします。それに慣れてしまうと、きっと検証することをやめ、どんな事象に対しても“自分の想像し得る範囲”のみで解決しようとし、それは自分を“押し付ける”だけのエゴになりかねない。
自分が大学4年の時ゼミの発表で、調べつくした(と思っていた)知識を、とりあえずすべて詰め込んでやろうと意気込んで、結局発表時間をオーバーしてしまったとき、教授から「それはお前のエゴだ!」と言われたのを思い出します…。
まさに“知ってる気”になっていました。ただただ恥ずかしいばかりですが、その時のハッとした気持ちは今でも忘れてはいけないと思っています。
学べば学ぶほど“知らないこと”は増えていく
学び始めや、知識が少ない時ほど、謙虚に学術と向き合い、「この先には今の自分では知り得ないことがたくさんある」と思うことが大切なのだと、つくづく実感します。

知れば知るほど、自分が“知らない”ということに気付く。学んだら学んだ分だけ学ばなければいけないことが増えていく。まさに迷路に迷い込んだように感じることもある。
時にはそれに向き合えずに、円を大きくすることを辞め、偏った学びに走ってしまうこともあるかもしれない。しかし、そんな偏った学びは、基礎を疎かにする近道にしかすぎず、“これだけ知っていればいい”、“知らないことは少ない”と自らを錯覚させてしまいます。

“無知の知”は謙虚に学術と向き合うきっかけ
優秀な専門家は、自分の大きな円(知識)を自覚し、“無知の知”を持っているからこそ、“知らないこと”や“不確かなこと”に対する態度が、謙虚でスマートです。まさに今教わっている教授たちがその鏡です。
そういった学術との向き合い方は、シンプルに、カッコいい。
研究者の中には、自らの専門に非常に特化している方も多くいますが、そんな研究者ほど、簡単には届かないレベルにまで自分の円を広げることに多くの時間を費やしています。そこからさらに、“特化した分、知らないことも増える”という構造を理解しているからこそ、そんな方たちは「わからないことは、“わからない”と言う」勇気と謙虚さがあると感じます。

まんべんなく、ちゃんと知っている。それでいで選手やデータ、学術に謙虚に向き合う。各専門家との架け橋を作る。大きな“無知の知”と向き合いながらも、自らの“知”を広げる努力を惜しまない。
そんな専門家こそ、“ジェネラリスト”としての「日本のアスレティックトレーナー」のあるべき姿なのかな、とも思いました。
まさに“無知の知”の大切さに気付かされた最初のセメスターでしたが、最中ではそんなポジティブに捉える余裕もなく、ただただこなすだけになっていたこともありました…。知っておくべきだったのに知らなかったことは何なのか、知った気になっていたことは何なのか、もっと疑わなくてはならないものは何なのか、時間をかけてクリアにしていきたいと思います。
今セメスターは、やむなく履修を減らしましたが、履修を減らすということは以後どこかのセメスターでより多くユニットを取らなければいけないか、あるいは在籍期間を伸ばさなければなりません。修了後のプランがある自分にっては、この選択は今後国内にいる期間の仕事とのバランスや、その先の計画に少なからず影響を与えるでしょう…。
大学院進学という、将来を見据えた大きな選択だったこのイベントも、結局一筋縄ではいかないことを痛感しているところですが、このプロセスも十分に楽しんでいけたらと思います。