『今日の試合は150%出して勝ちます!』
『120%の力で頑張ろう!』
スポーツ現場、あるいはそれ以外の場面でもしばしば聞かれるこのセリフ。
残念ながら私は、“100%を超える力”を本番で出すと宣言している者の中で、そもそも“100%の準備”を行ってきた者を見たことがなかった。
久保選手のそれを聞くまでは。
準備
戦うための準備。勝つための準備。目標を達成するための準備。
準備とは、設定した目標に到達するために、キャパシティを埋める作業である。
目標の大きさによって用意する“タンク”の大きさが変わる。まずこの“タンク”を用意する作業が、目標設定である。
目標を立てた時点で、そこが100となり、準備は100すべき。それ以上でも以下でもない。
用意したタンクを満タンにすることが、準備なのだ。

つまり、自ら用意した“タンク”をいっぱいにできなければ、それは準備不足だったということになる。
一方、せっかく満タンにできたとしても、本番でそれを使いきれるとは限らない。
いざ本番が始まれば、自分でコントロールできないことも一つや二つ必ず起こる。準備してきたものだけでは対応しきれないこともあるだろう。
しかし大事なのは、まず“自分が”設定した目標に向けて、やるべきことをすべてやったかどうかである。
準備とはそういうものだ。目標とする標的に合わせて、過不足なく、準備をする。自分がやれるだけのことをする。本番で起こる自分ではコントロールできないことは、どうしようもないことだ。
『120%』=『80%』
準備に、100以上も以下もないのにも関わらず、容易に『100以上の力』を口に出してしまうような者。
そういう者が言う『120%の力を出す』は、結局『80%の準備しかしてこなかった』、『20%は奇跡が起きることを願う』、そう宣言しているに過ぎない。
不足している分は、外部のサポートなのか、相手のミスなのか、ラッキーなのか、自分ではコントロールできないものに、運命を任せているようなものだ。
その先も、もっとできることがあるはずなのに、“80%”が自分の中の100の準備だと錯覚して生きていくことになる。こうなれば無意識のうちに“準備のキャパシティ(タンクの大きさ)”は減っていくだろう。
仮に、力不足に気付き、途中で「もっと頑張ろう」と思っても、もう手遅れかもしれない。なぜなら、自分が楽して作り出した“タンク”は、満タンになったとしても到底目標に届くようなものではなくなっているから。
『準備不足宣言』に過ぎない“100以上の力”
目標設定をし、その目標を絶えず意識し、努力を継続することは簡単なことではない。
だからこそ、テキトーな目標設定などできるはずがないのだ。
“タンク”を満たすことの大変さに直面し、それ以上の準備を辞めてしまう者。本番だけ、あたかも“100の準備をしてきた”かのように、『100以上の力』を頼りにする者。
彼らは、自分の準備不足によって100のキャパを埋められていないことに、心のどこかでは気付いているはず。自分の力を出し切ったとしても、目の前の目標には届かないと自覚しているはず。
だからこそ、本番になって『120%』とか『200%』とか『練習以上の』とか言う言葉を、不安を払拭する魔法のように使ってしまうのだ。
形だけ繕おうと大きすぎる目標を設定したり、目標までのプロセスを怠った者が言う『100%以上の力』。残念ながらそれは、単なる『準備不足宣言』に過ぎないのだ。
その先も「このくらいでいいや」と必要な努力を怠り、本番になれば『準備不足宣言』を繰り返し、それだけで満足するのであろう。
久保選手が言う“それ”はなぜか違った
去年の東京オリンピック、男子サッカー日本代表の久保選手を思い出す。
明確な目標に向けた努力と、徹底した準備に裏打ちされた高い自己効力感。大会前、大会中の久保選手の一言一言から、それを感じざるを得なかった。
メキシコ戦の前、久保選手は「150%の力を出す」とメディアに言っていた。
私はこの言葉を聞いたとき、いつもの“それ”とは違った印象を受けた。
準備不足を露呈しているに過ぎない、“100%を超える力を出します宣言”とは違う、何かとても説得力のあるものを感じた。
『100の準備』を徹底する久保選手であれば、もしかすると属するチームの力を、120、150にまで持っていくことができるのかもしれない。組織においてそれだけ影響力をもった人間なのかもしれない、そう思ってしまった。
自分の『100』× 仲間の『100』
スポーツ、特にチームスポーツでは、良くも悪くも、自分の頑張りだけがいつも結果に直結するとは限らない。高いレベルの中では、チームメイト全員が良いパフォーマンスを発揮してこそ、結果が実を結ぶのだ。
自分がいくら“100の準備”をしていたとしても、隣にいるチームメイト、スタッフが準備を怠っていたら、チームとしての準備は“100以下”となるだろう。逆に、チームに属する全員が、“100の準備”をしていたら、チームとしての準備も“100”、あるいは、全員の相乗効果によって“100以上”になるのかもしれない。
“100の準備”を、一人残らず徹底させることで、チームとして、“100以上の力”を生み出せるのかもしれない。
周りを頑張らせる頑張り
隣で手を抜くチームメイトを叱咤し、ミスを引きずるチームメイトを見捨てず、壁にぶち当たったチームメイトに寄り添うことができるか。
そして、全員に『100の準備』を継続させるため、自分の背中で、声掛けで、絶えず鼓舞することができるか。
直接コントロールできない、“他人の努力(準備)”だとしても、チームの中での自分の言動は、必ず間接的に他人の行動に影響を与えることができる。
単なる推測に過ぎないが、きっと久保選手は、そんなことまで考えているんじゃないかと思ってしまった。自分自身の準備だけでなく、周りを巻き込む準備まで、徹底しているのではないかと、感じてしまった。
だからこその『150%の力を出す』だったのかと。
“トップアスリート”の姿
あの、久保選手の試合後のインタビューは、どんなアスリートの言葉よりも、直接、心に響いた。
悔しさをこらえ切れずに涙する久保選手を見て、「まだ子供なんだね」とか「幼い一面」とか言う意見もあったようだが、私には全くそうは見えなかった。あれは、準備し、戦い抜いた、トップアスリートの姿そのものだった。
日本代表の目標であったメダルまであと一歩となったメキシコ戦。
惜しくも敗退した試合後のインタビューで、リポーターは久保選手に繰り返し声をかけていた。
「果敢に攻め続ける姿勢が素晴らしかったですね」、
「今回のチームは結束も強く良いチームでしたね」と。
「そんなものは負けてしまえば何にもならない。」久保選手はそう言った。
もし、結果が伴わなかったとき、“いいチームだった”、“良い頑張りだった”で終わっていたら、きっと久保選手の今はないはずだ。
負けてしまえば、彼にとっては本当にどうでもいいことなのだろうと思った。
“準備”に時間を費やし、自分以外の人間も巻き込みながら、たくさん考え、たくさん実践してきたからこそ、一戦一戦に“重み”を感じる。
久保選手が、あの負けが“重かった”と言ったのは、きっと、そこに至るまでに、それだけの“準備”をしてきたからだ。
その“負けの価値”はとてつもなく大きい
100の準備をし、自ら準備した“タンク”を目いっぱい埋めたのにもかかわらず、負けてしまうことだってある。
そんなとき、“ちゃんと”準備してきたアスリートは、口を揃えて「準備が足りなかった」、「甘かった」、そう言う。
実際には、自分には直接コントロールできない要素が結果を左右したのかもしれない。相手のコンディション、試合環境、あるいは社会的、心理的な要素が、準備してきた100の力を発揮させてくれないことだってあっただろう。
しかし、実際に100の準備をし、それでもまだ「準備が足りなかった」という彼らならば、きっと自分のキャパをさらに広げる努力をするだろう。またさらに大きな“タンク”を用意するだろう。直接コントロールできない、“他人の努力”にも影響を与えられるよう、行動や取り組みを省みるだろう。
例え結果が良くても、過程や内容が悪かったとき、ちゃんとそこを省みることができる。過程や内容が良くても、悪い結果になってしまったとき、ちゃんと結果にこだわり、省みることができる。
真っ当な準備をしてきたからこそ、失敗や成功から得るものは、きっと人一倍大きい。
嫌いだった“あのセリフ”に、正解が見えた
彼らは決して満足しない。
あらゆる結果も、決して美談では終わらせない。
ただ、準備してきた分を、全ての試合で出し切る。
そして、結果がどうあれ、結果以上の経験値を得るために省み、次に生かす。
普段サッカーにはめっぽう興味はないが、
一アスリートとしてテレビ越しに見た久保選手の言葉。眼差し。涙。
今でも頭に焼き付いて離れない。
自分自身が『100%の準備』をし、周りを巻き込み『150%の力』を目指した。
その『100%を超える力』は、私がこれまで目の当たりにしてきた準備不足を露呈するものではなく、本物の『100%を超える力』であった。
間違いなく、頑張っていた。努力していた。
そして十分に、頑張らせていた。周りを、動かしていた。
実際はどうかなんてわからないが、そう感じざるを得ない、何かがあった。
そこまでしても、勝てなかった。
しかし、だからこそ、得たものはとてつもなく大きい。
そして、我々に与えてくれたものも。
頑張るからこそ、頑張らせることができる。
100以上の力。もしかすると、あるのかもしれない。
聞く度に引っ掛かっていた、私が“嫌いなセリフ”に、ある種の正解を見出だしてくれた、久保選手の言葉であった。
高梨選手の失格(あとがき)
ずっと下書きにあったこのブログは、東京五輪の時に書いていましたが気付けば温めすぎて冬季オリンピックを迎えていました…
スキージャンプ混合団体での高梨選手のスーツの規定違反。非常に残念で、こちらももどかしく、悔しい気持ちになりました。その後日本メディアはいつものようにドラマ仕立てにこれを報じていますが、長々とこれついて言う必要もないので、私が思ったことを一つここに書き残しておきます。
高梨選手はSNSで“謝罪文”を投稿しました。
その投稿の中で彼女は「自分の失格のせいで皆の人生を変えてしまった」と言っています。おそらくこれは団体として臨んだチーム、関係者の方々に向けた言葉だと思いますが、
高梨選手はすでに、それよりも多くの人の人生を、豊かに変えてくれている。
若くして台頭し、競技を引っ張り、オリンピックで結果が出せないプレッシャーも大きかっただろうに、目標に向けてgrindして、常に自分の目標に対して真摯に向き合ってきたからこそ、それが反射し自然と周りのためにもなっていた。だから、もはや目標は自分だけのものではなく、みんなのものになっていた、そう“思えている”のだろう。だからこそ、失敗すれば周りに謝罪するし、もし勝っていても周りに真っ先に感謝しただろう。
オリンピアンなんてみんなそうだ(と勝手に思っている)。その姿こそ、今目の前に映っているアスリートの姿だけではなく、“その裏の頑張り”を、“そこに至るまでの準備”を、「想像せざるを得ない」ようなパフォーマンスこそ、必死さこそ、眼差しこそ、言葉こそ、我々の人生を豊かにしてくれているのだ。
ミスはミス。規定は規定。レギュレーションにも賛否はあるが、きっと高梨選手はじめチームスタッフは、そんな中でも自分ができたことは何だったのか、どうすれば想定外を防ぐことができたのか、もう十分すぎるほど省み、“結果以上のモノ”をすでに得ているだろうと思います。
もう高梨選手のミスそのものについて議論する必要はない。一番つらいのは選手自身、スタッフ自身です。トップであればあるほど、良くも悪くも得るものはとてつもなく大きい。消化するのにも時間がかかって当然です。
結果を期待する、期待される、期待外れ、などというのは単なる第三者の目線。アスリートを本気で応援してるなら、アスリートと“目標を共有している”なら、まずは我々が、この“結果以上のモノ”を得て、感謝して、次に活かして、進んでいこう。
赤の他人代表、ただのアスリートファンの言葉でした。