“俺の”勝ちだ

ヴァンフォーレ甲府の平井トレーナーから受けた強烈なinspireは、私の大切なコーチング哲学をも思い起こさせてくれました。(それは“誰の”勝ちか

我々の仕事は結果に“直結する”

トレーナーとして、メディカルスタッフとしては、形として“支える”立場ではありますし、実際に表に出ないポジションでもあります。それゆえに、「〇〇選手を“強くした”トレーナー」だとか、「〇〇を“勝たせた”指導者」だとか、「〇〇を“陰で支える”スタッフ」と、謳われることが多いですが、私は、そのような考えを持っていません(持たないようにしています)。

繰り返し書き残している事でもありますが、選手に「あいつのお陰で」と真っ先に思われるような指導者になるのではなく、まず選手が「“自分が”頑張ったから」「“自分が”しっかりやり抜いたから」、そう思うことのできる選手を育てることが私のゴールであり、コーチング哲学でもあります。

だからこそ、自分自身も、例え自分の仕事が“間接的に”しかプレーに関われないとしても、マインドの中では、私の仕事が“直接的に”、“自分が”結果に関わっている、日々の行動1つ1つが結果に結びついているという責任を持って仕事に取り組むべきだと思っています。

“他人の勝ち”を作り上げるではない

私は、典型的なイメージでもあるこの“間接的な”関わり方という考えを、我々指導者自身が持っていたとすれば、それは上手くいかなかったときの言い訳に繋がるだけだと強く思います。

“陰で支える”とか、“知られざる”とか、美談にされがちな立場ですが、我々自身がそれに甘えることは絶対にしてはいけないと思いますし、それは結局自分の首を絞めることに繋がります(やりがい搾取、何でも屋、サービス屋のような)。

そして何より、そうやって考えている以上、自分の仕事に対して真の責任を負えず、結果に対して、“心の底から”感情を共有することができなくなってしまうと思います。だって、あなたにとってのその“勝ち”は、あなたが支えてきた“他人の勝ち”であり、一生、“あなた自身の勝ち”にはなり得ないから。

“自分の目標”のために

もちろん、トレーナーやコーチからしたら、自分が手塩にかけてきた選手や長らくリハビリをしていた選手が試合に出て活躍してくれたらとてつもなく嬉しいし、感動もします。でも、まずは、『チームの目標に乗っかる』のが大前提ですから、勝ったとき、負けたとき、その“結果そのもの”に対して何の感情も湧かないのであれば、それは指導者としてどうなのかと、私は思います。

結局、最後の最後ピッチに立つのは自分以外の人間です。それでも、「俺の“勝ち”だ」と思える。それにふと、気付いた時、初めて、自分は自分の仕事を責任をもってやり切ったんだと感じられるんじゃないか、そう思いました。

すべては、“自分の目標(=チームの目標)”のために。

例え、見た目上“誰かのためにやる仕事”であっても、それは、自分のため、自分の目標達成のためである。自分のために必死になるからこそ、チームの目標達成が、自然と“自分のもの”になる。あの、何にも代え難い素晴らしい感情を、みんなと共有できる。それが私が信じているトコロです。

“あの瞬間”に自分の心に浮かんだ感情に噓をつかずにいられるか。その感情にそもそも嘘など必要のないほどに、必死になれるか。

そこじゃないかなと、改めて思います。

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