禅 -ZEN-

約2年前、コロナ渦によって家にいる時間が多くなった時期に、坐禅を始めました。

スマホの坐禅アプリをダウンロードし、座蒲(ざふ:坐禅で使う座布団)を買い、毎日欠かさずにとまでは言えませんが、起床後や寝る前に続けている習慣です。

そんな中、年始に関西に行く機会があった際に京都のお寺で坐禅会に申し込み、いわゆる“本格的な坐禅”を初めて行ってきたのですが、その経験が、これまでの坐禅に対する考え方、ひいては人生観までもを刺激する、大切な気付きを与えてくれました。

坐禅 ≠ 無に“なろうとする”

マインドフルネスやヨガの流行によって、「禅」に対するイメージも一般に広まってきていると感じる今日この頃ですが、「坐禅」と聞くとどのような印象を受けるでしょうか。

「無になる」「整う」「邪念を取り除く」…

禅に関する情報を持っていなかった私自身は、そんなことを求めて坐禅を始めました。始めたころは、寝る前や集中したいとき、色んなことを考えすぎてしまう、頭の中でたくさんのことを同時に処理しようとしてしまう傾向があったので、まさに寝る前は「無になりたい」、集中したいときは「整いたい」そんなことを期待してとりあえず“自己流”で実践していました。

結論から言うと、「無になろうとすること」「整おうとすること」、そう努力することは、坐禅の実践に当たっては誤った考え方でした。

静かにその場に坐ってやっていることは、実は、何もせず「無になろうとする努力」をしているのではなく、「自分自身や環境を徹底的に観察し、理解する」ことでした。

徹底的な観察

徹底的な観察によって、自分、そして他人、環境への理解を育み、自分の生きている世界を理解することが、禅の中の大きな考え方の一つだったのです。

何もしないで、とにかく無になろうとしているのではなく、身体的に不変の状態を作るからこそ、身の回りの変化に敏感になることができる

そんな状況の中で、今自分の頭に浮かんでくる感情や身体の変化、そして様々な環境の変化に気付き、観察し、その構造を理解する。

これを聞いた時には、残念ながら長い間真逆の取り組みをしてきた自分を悔やみましたが(もっと早くに“本物の”坐禅をしに来るか、本でも読めばよかったのだが。)、それよりも僧侶さんの説明がしっくり来て、自分にとっての禅の定義がはっきりした感覚がありました。

坐禅中、何もせずに坐っていると、例えば、何かの音やにおい、組んでいる脚のしびれや肩の凝り、また時間感覚への意識、あるいは関係のない悩みまでもが頭に浮かんでくる、なんてことはよく起こります。

これまでの自分であれば、そのような感情や思考に“抵抗”して「ダメだダメだ、頭の中を空っぽにしないと」と、『無』になる努力していました。しかし本来は、坐禅中にこのようなdistraction(目障りになるもの、注意をそらすもの)に無理に抵抗する必要はなかったのです。

―その考えはなぜ頭に浮かんでくるのか

―脚はなぜ痺れるのか

―この音は何なのか

―それらはどこからきて、どう消えていくのか

―そしてそれらの刺激に自分はどう反応し、何を思うのか

自分の注意を逸らす身の回りの事象や、それに反応する自分と自分の感情を徹底的に観察し、問い続け、“(自分の)世界”で起こっている事、起こり得ることを理解することが、最も核となる取り組みなのでした。

“受け入れられる”

実際、坐禅をしていれば脚は痺れる、周りの音も耳に入ってくる、邪念も浮かんでくる、しかし結局、それらは大抵の場合どうしたって自分の身に降りかかるものであり、自分はそれを知覚し反応してしまうものなのです。

たとえ無視したとしても、はたまた受け入れたとしても、自分にとってのそれらのdistractionは、この“(自分の)世界”から無くなることなく、変わらず起き続けるのです。

だからこそ大事なのは、観察によって、それらの事象が起こることを理解していること、それに自分がどう反応するのかを知っておくこと。

理解が進めば、次第に自分の中あるいは自分の周りで、あらゆることが起こっていても、それらに無理に反応しなくなる。あらゆることを受け入れることができるようになる。元々それらは“そういうものだ”と思えるようになるからこそ、無駄に揺さぶられることも少なくなるのだと思います。

“雑音”はただの“音”に変わる

『あなたの意識を邪魔するその“音”は、きっと今後も聞こえ続けるでしょう。しかし、それから目を逸らさず、観察し、理解すれば、もはやその“音”は、あなたにとっては“雑音”では無くなるのです。』

僧侶さんの言葉です。

雑音だったものがただの音になり、邪念だったものがただの気持ちになり、気に入らなかったあいつがただの人になる。

これまでの自分にとってdistractionだったものは、ただ、“そこにあたりまえにあるもの”に変えられるのかもしれません。

『無』になる努力は必要ない。時間はかかるかもしれませんが、“自分の世界”を理解しようと努めることが、物事の理解の上に成り立つ、何にも動じない、いわゆる『無』と呼ばれる状態を作り出すのかもしれません。

“理解している”というレンズを通して見た世界は、自分にとって案外窮屈なものではなくなるのかもしれない。

絶えず起こり続ける事象に対しても、その瞬間で、自分ができることも見えてくるかもしれない。物事の構造を理解すれば、考えたって仕方がないことと、実は自分でどうにかできることの分別も、はっきりしていくような気がします。

今あるもの、今できること

僧侶さんがおっしゃっていたことが思い出されます。

『私も未だに脚痺れます。でも、なぜ脚が痺れるのかを理解し、どのくらいで痺れて、どのくらい自分自身がそれを気にして、どのくらいで慣れて、どのくらいで感覚がなくなり、どのくらいで気にしなくなるのか、自分自身を観察しつくした結果、放っておけるのです。今では、“脚が痺れている”といちいち定義する必要がないのです。』

あえて今回は“悟り”などという言葉は使いませんでしたが、修行を通じて悟りの境地に達するというのは、世の中のすべての事象に対して、「理解しているからこそ、動じない、すべてを受け入れられる」状態になることを言うのかもしれません。

自分には“どうしようもないこと”を受け入れ、代わりに“今自分ができること”に集中できる。『今に生きる』、『使用の心理学』などとも言うように、徹底した理解の先にこそ、今あるもの、自分が今持っているもの、自分の軸でモノゴトに向き合える“強さ”が身につくのかもしれません。

“軸”を持ち、動じないからこそ、周りの、他人の小さな変化にも気付けるようになるのかもしれない。

坐禅は“ただ座る”という実践を通じて、身体的に動じない、不変を作り出すことで、自分自身や身の回りで起こる変化に敏感になる。そんなマインドセットの、きっかけを与えてくれる取り組みなのかもしれないと、気付くことができました。

きっと、正しく実践し、日常にもっと応用出来たなら、「動じないけど、変化には敏感」な、生きやすく楽しい人生になるのかもしれない、なんて思いました。

あとがき:ウォームアップこそ、禅

私は、選手たちに指導する中で、「徹底した意識が、無意識をつくる(Don’t feel, THINK.とも)」と、よく言っています。

これは特に、“ただこなすだけ”になりやすい、ウォームアップや繰り返しのトレーニングなどを行う際に伝えている事ですが、この言葉とも、禅の取り組みとの共通点、普遍性が見えたような気がしました。

ウォームアップやルーティーン、自分なりの準備は、きっと毎日同じことの繰り返しがほとんどかもしれません。しかしこの、“いつもと同じこと繰り返す”というルーティーンこそ、“不変”を作り出し、アスリート自身が自分の中の小さな“変化”に気付くことができる、絶好の機会なのです。

「昨日より少し動きやすいな。」「この動き今日は硬いな。」「なんか息が上がりやすいな。」まずはこんなことだっていいから、“不変”のなかで、日々の身体やコンディションの小さな変化に敏感になってみる。その自分自身の観察こそが、コンディションに左右されない(即座に最適化できる)パフォーマンスを作っていくきっかけになると信じています。

いつもと同じ、変化がないからと言って、“なんとなくやる”のではなく、いつもと同じだからこそ、その中で“いつもと違うことを探してみる”。Feelingでやるのは、Thinkingがあってからのこと。そんな一つの信念を、少しばかり裏打ちされたような気もします。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中