言語や仕事を抜きにしても、決して楽とは言えない一年でした。「当たり前」とは何なのか、「自分」とは何なのか、「日本人」とは何なのかを事あるごとに考えさせられたこの一年。そんな中で至った考え、気付かされたことをまとめてみました。
“外国人”になったこと。
イチローさんは、引退会見の際にこんな言葉を残しています。
“アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報をとることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。
孤独を感じて苦しんだこと、多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと今は思います。だから、辛いこと、しんどいことから逃げたいというのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある、元気のある時に、それに立ち向かっていく。そのことはすごく人として重要なことではないかと感じています。”
これは多くの留学生の中で心の支えになっている言葉だと耳にしたことがありましたが、私もその中の一人です。自分を表現できず、辛い思いを抱えていた時、この言葉を思い出すことで、感情を受け入れ、次に進むことができました。
会見で、言葉を大事に選びながら、これまでの経験を噛みしめるようにして語るイチローさんの姿を見ると、今でもグッとくるものがあります。
“日本人”としての自覚
「あぁ、自分は“外国人”なんだ」と思うようになったことで、同時に“日本人としての自分”のアイデンティティを強く感じるようになりました。
よく聞く話ではありましたが、アジア人の中でも日本人はかなり“評判がいい”です。
こちらの人たちは日本人、中国人、韓国人を、顔を見ただけで見分けられる人はほとんどいないので、“アジア人=中国人”というデフォルトがあるようなのですが、ひとたび「日本人です」と言った瞬間、彼らが特別な目を向けてくるような場面には、何度も遭遇しました。
中国系カナダ人は冗談で、“日本人はいつも特別扱いされていいよなぁ”と皮肉を言ってきました。それだけ、日本人の評判、アジアの中でも何か“特別感”があるのは今でも要所で感じます。
特別な日本人
こちらの人が持つ、日本人に対してのステレオタイプとしては、「礼儀正しい」「良い人」「謙虚」「時間に正確」「仕事に真面目」などがあげられるでしょう。
これらの日本人に抱くイメージのようなものは、日本文化や社会的な環境に影響を受け、日本人が培ってきた価値観と大きく関係していると思います。
すべての日本人がこのようなイメージに当てはまるとは到底思いませんが、日本人を集団としてみたとき、このステレオタイプはあながち間違っていないと私は思います。
と同時に、これらの日本人の特徴は“自然に”実践されているものではないとも思っています。
むしろ、礼儀正しくあろうと努める、良い人であろうと努める、謙虚であろうと努めることができる点こそ、日本人らしさなのではないでしょうか。
日本人は、社会的な規範や、集団の規律の中で、そうなろうと努力した結果、“日本人らしさ”を表現できているのだと思います。
こう考えると、「日本人と言えば…」と問われたとき、礼儀正しいとか、親切とか、謙虚とか、時間に正確とか、仕事に真面目とかというよりも、単に、「自分を律することができる人間が多い」だけであると、頭に浮かべるようになりました。
“Disciplined”
自然とそう振る舞っているのではなく、社会の中で、自分を律し、やった方が良いことをちゃんとやれる。我慢できる。犠牲を払える。よくあるステレオタイプのように“振る舞える”。そのような積み重ねによって、“日本人像”を生み出しているのかなと。
世界大会が開催されるたびに報道される、スポーツ観戦後にゴミ拾いをする日本人の姿。

はたして、あの日本人の方々は、いつでも、どこでも、そのような行動を“自然と”取るような人なのでしょうか。
確かにそういう人も中にはいるかもしれない。でも全員がそうではないと私は思います。
しかし、あのような行動を取れる人々は、少なくとも、ゴミ拾いや、公共の場をきれいにすること、使った場所は来た時よりもきれいにして帰ることを、「やった方が良いこと」として認識し、自分を律し、それを行動に移しています。
掃除は清掃員がやればいい、自分がゴミを落としても誰かがきれいにしてくれる、そう思うのではなく、社会的な責任を自分に課すことができるからこその行動だと思います。
普通に考えて、ゴミを拾うのなんてめんどくさい。きれいに掃除するのなんて時間かかる。でも、やる。
普段やってないとしても、自分を世界から見た“日本人”と自覚したとき、“日本人だから”というレッテル、厄介な重みを感じて、「やっとくか」「やんなきゃ」と思える。自分の裏にある“社会的な目”を気にすることができる、気にしてしまう。私はそんな思考プロセスが、私たちの価値であり、美しさであり、“日本人らしさ”なんじゃないかと思います。
“当たり前”の価値
社会的なプレッシャーは、もちろん時に問題にもなり、ある人にとって大きなストレスにもなるでしょう。
でも私は、「落ちているごみを拾う」というような、当たり前な行動を起こせる、少なくとも、「落ちているゴミに気付く」という“フィルター”を持っていて良かったと、フィルターを持ち歩くようにしつこく私に教育してくれた社会にとても感謝しています。
ゴミを拾う、掃除をする、だけに限らず、“日本人らしさ”を体現するような行動は、どれも誰もが想像できる日常から垣間見えることです。そしてやろうと思えば、誰にだって真似できることです。
誰にでもできるということは、その価値を共通の“物差し”で測ることができるということ。他の人が見過ごすことでも、日本人は手を付けことができる。行動に移すことができる。他の人がそれを当たり前と思わないことでも、我々は当たり前と思う(当たり前のこととして考えるよう努めることができる)。
“日本人”が価値を見出されている理由は、何も特段変わった奇妙な習慣を持っているからとかではないと思う(文化的な背景や歴史的建造物や食文化はそうかもしれないが)。
誰が見たってやった方が良いことをやれる、皆が持っている“物差し”で測ったとき、その誰もがすごいと思える。「“当たり前のレベル”が高い」ことにこそ、価値が見出されているんだと思います。
誰にでも想像し得る、誰にでもできる、誰にでも見える、でも、“めんどくさいこと”を「でもやんなきゃ」と思うことができる。そして社会的な責任を課し、実際に行動することができる。当たり前を、やり続けることが一番の価値に繋がるのかもしれません。
“普通じゃない普通”
どこかのブログでも書きました。
私が、あ、この人すごいな、尊敬できるなと思う人は、「自分が仮に同じ状況、同じ環境に置かれたときに、その人と同じだけのものが生み出せるか、同じ質の仕事ができるか」と考えたときに、「いや自分だったらそこまではできない。」「そこまで頑張れない。」そう思えるような人たちです。
外国人が日本人を見たとき、あるいは日本を訪れた際に感じるものは、これに似ているのかもしれません。
地下鉄も、大都市も、交通網も、似たようなサービス形態もどの国にもある。しかしひとたび日本のそれを目の当たりにすると、「自分の国だったら、ここまでできない」「なんでここまでの大都市でこれが実現できるんだ」と思う。ホスピタリティだってそう。「チップも貰えないのになんでこんなに接客がいいんだ」と思わせることができる。
それらは有形のものではなく、人々の行動、コミュニティが生み出す空気であり規範です。
たとえ同じ状況が自分の国にあったとしても、ここまですることはできない、彼らはそう思う。なぜ“ここまですることはできない”かと言えば、それを日常的に繰り返し、習慣化さるまで自分を律するという選択肢がそもそもないからなのでしょう。
彼らにとって“普通じゃない普通”が積み重なって、“日本人というイメージ”を作り出しているのではないかと思います。
当たり前の“ダウングレード”
おおらかな国民性、気さくな国民性。多様性を受け入れる寛容さ。それを前面に出して、外国人を向かい入れてくれる国々。確かにいいところはたくさんある。
そういったこの国の文化を私は尊重しているし、見習うべきこともあると思っています。
しかし、私はこの文化の中で育ち、この文化を自分の中の“普通”にはしたくないなぁと、ことあるごとにフッと感じてしまいます。
特段、日本の社会に嫌気がさして海外に飛び出したわけではない人間にとって、そして何より、典型的な日本人気質の私にとっては、日常で起こる、目にする様々なことが気にかかってしまう。目についてしまう。
それは、私が属していたコミュニティでは許されなかったことが、ここでは当たり前であるから。
日本の社会が嫌で、そのような社会規範に従うのに息苦しさを覚えた日本人にとっては、海外は住みやすいに違いない。なぜなら、自分を監視する社会(コミュニティ)の目はここにはないからです。
外国人が日本にきて“当たり前のレベル”をアップグレードするのは、そう簡単なことではないでしょう。なぜなら、これまでそもそもその“目”を持っていなかったから。
逆に、私はこの一年間、“当たり前のレベル”をアップグレードしなければならない場面は全くありませんでした。むしろ、周りに合わせるために、これまでは気になって仕方がなかったことも、無視しなくちゃいけない場面の方が圧倒的に多かった。
“気付いているのに、行動を起こさない”という選択せざるを得ない状況は、時にストレスになりますが、“当たり前のレベル”をダウングレードするという点では、肩に乗っけていた重りを降ろしていくようなものでした。
“日本人で良かった”
外国人としての自分、そして日本人としての自分を見つめ直すことで、ある種日本の“窮屈さ”が心地良かったのかもしれないと気付きました。
周りの人々の社会に向けた行動、態度を見ることで、「きっとこの人達も、目には見えない重りを運んでる」と思うことで、それがまた自分を律するきっかけになる。
私は、気付くこと、律すること、演じることで、人生は豊かになると信じています。
社会的規範を重んじることで起こるストレスやしがらみもあるかもしれない。ただ、その規範から学ぶこと、基準を持ったからこそ例外の価値に気付くことも多いはず。
余計なフィルターを通すことで、ほかの人が経験できないことも経験できる。「本音と建前」でいいじゃないか。私は、自分の好きなようにしか言動できない人よりも、建前で自分を演じられる人の方が、“奥ゆかしさ”、“美しさ”を感じます。
私は、日本の文化や社会的規範の中で育ってきて本当に良かったと思いました。
“こうあるべきだ”、“こう振る舞うべきだ”という社会的なプレッシャーを感じ、自分の首を絞めてしまっていたことも多々あった。
でも、異文化にきて思えたことは、少なくとも“気付ける人”に育ててくれたこの窮屈な文化への感謝です。
“日本人”として、“外国人”になったこと。そのことは、今まで持っていたフィルターをさらに分厚くさせました。
日本人で良かった。あるいは、日本人で良かったと“ほっとした”という表現が自分の感覚に一番近いかもしれません。
“日本人”を代表する
外国の地で“日本人のアドバンテージ”が使えるのはせいぜい初めて会った瞬間ぐらいでしょう。そこから、“人”としての自分を表現したとき、自分だけでなく、“日本人”の価値を上げられるかは、自分の行動にかかっている、ということは常に頭に置いておかなければなりません。
カナダに来る前、私は自分の属してきたコミュニティ、関わってきた人々の価値を高めるためにも、自分が全力でやるべきことをやり続ける、と言いました。
そのモチベーションは、一年が経ち、もう一層大きなものになっています。
大それたことに聞こえるかもしれませんが、関わっていく人に、自分を通して日本人の価値を感じてもらう。より良いイメージを“植え付ける”ために、これからも精進していくんだと、意気込んでいます。
