「B.L.M.」自分の口で言えるだろうか。

日本人として、異文化経験が無い日本人として、

“人種”という隔たりを肌で感じたことがない日本人として、

ぬるま湯に浸かっている日本人として、

考えなきゃいけないことがある。

BLM Movement

アメリカ全土に広がる「“Black Lives Matter (BLM)” Movement」。

警官による黒人に対する差別的措置とその根底に根差す人種差別問題。

https://www.nba.com/clippers/

スポーツに関わる人間として、ここ数ヵ月、プロアスリートによる抗議活動や政治的な意見発信を多々目にしてきた。まさに「スポーツ」というフィルターを通してこの問題を見ていることが多かったのだと思う。

プレーを通じて社会的メッセージを発信することを選んだNBA。しかし。

そんな社会的なMovementの中、NBAはパンデミックによるシーズン中断からようやく再開を迎え、プレイオフに突入していたところだったが、再び悲惨な事件が起こった。

https://edition.cnn.com/2020/08/27/us/jacob-blake-wisconsin-thursday/index.html

アメリカ四大スポーツの中でも黒人選手の割合がとりわけ高いNBAでは、“More than basketball” とも掲げられ、「競技よりもまず取り組まなければいけない問題がある」と言われ(これはスポーツ全体の流れでもあった)、そもそもシーズン再開に否定的な意見もあった。

そんな中で、影響力のあるプロフェッショナルアスリートが、地上波を通して、プレーを通して、社会的なメッセージを届けることでこの問題の解決に尽力する、と唱ってシーズンを再開したところだった。

そんな中起こった今回の事件。

事件が起こったウィスコンシン州は、Milwaukee Bucksの本拠地であり、Bucksの選手たちはこの事件を受けその日予定されていた試合をボイコットした。それに続いてリーグ・選手会からも続く試合の延期が発表された(現在は再開が決定)。

NBAのコミュニティからも強く発信されてきたBLM Movementの最中、またしても。

やるせなさあきれ怒り悲しみ、そんな感情的なメッセージが次々に発せられた。

「これほどまでに自分の肌の色を考えさせられたことはない。」
「黒人である自分の子供がこの事件を目の当りにしたら。」
「これ以上私たちにできることがあるのか。」

あるコーチは涙を浮かべながら訴え、あるライターは言葉をつまらせながら選手たちの決断を称え、ある番組キャストは番組を放送途中で抜け、抗議の意を唱えた。

みなが「他人事」ではない。

連日報じられるこのような悲惨な事件の数々は、決して当事者だけの問題ではなく、“コミュニティ”全体の問題なのだと、強く感じた。

この一連の事件を、Movementを、“私”はどう見ればいいのか?

これらの事件ひとつひとつを、まさに「自分の事」として考える人々がこんなにもいる中で、私は、どう感じているのだろうか?

「可哀想。」「ひどい。」「悲惨だ。」

そんな考えは腐るほど浮かぶけど、「可哀想。」これはあくまでも“他人事”として捉えているから言えることなのかもしれない。

ここ数ヵ月で特に胸に響いた言葉が、まだ頭に残っている。

「知っているのにも関わらず、目の当たりにしているのにも関わらず、それに対して何も行動を起こさないのは、Racistであることと同じぐらい罪だ。」

間違いなく目の当たりにしたこの状況を、人々が命懸けでアクションを起こそうとしているのを知っている自分は、一体何をするべきなのか。

偽善に聞こえるかもしれない。しかし、私は本気でこの問題から目を背けてはいけないことを知っているし、「よく知らないからしょうがいない」では済まないことも知っている。「無知」であり、無知が故に何もできないことは、罪であることを知っている。はずだった。

自分が無頓着であることに気付かされた。

こう考えるようになったのは、きっかけがある。

プロのリーグでトレーナーをしているとき、当時のチームにはアメリカ人と日本人のハーフの選手が2人在籍していた。

うち一人は日本語が流暢ではなかったが、英語を交えながらアメリカにいるときに受けた「アジア人差別」について話してくれた。そしてもう一人(Skin colorはBlack)は、日本とアメリカ両方の文化を経験した身から、何度も何度も、黒人に対する差別の歴史や、それらに対する日本人の無知さについて話してくれた。

日本人が良くしがちな見た目を“いじる”行為が大きな差別にも繋がること。
黒人への目の合わせ方。黒人の髪を触るということ。黒人の呼び方。
我々日本人が黒人に向ける“目”。決して差別的ではないとしても、物珍しそうに見るその“目”こそが人によっては、恐怖であり屈辱であること。

そして何より、我々日本人が、今起きている差別問題とそれらの歴史について「無関心」であり「無頓着」であること

その選手との話の中で、嫌と言うほど感じたし、仕事柄多くの外国籍選手とか変わってきたのにも関わらず、気にも留めていなかったことに罪悪感を覚えた。

まさに今、この一連の事件とその問題の根深さを痛感したとき、「何でこんなことが。」としか考えられなかった自分への「罪悪感」と、問題が明るみになりスポーツを通してしか感じることができなかった自分の「無関心さ」に苛立ちを覚えた。

目を向けるべきは、どこ?

そんなことを考えながら、このMovementに対する様々な意見をたくさん耳にした。

そもそも差別を受けた黒人は疑われるようなことをするから悪いと言う者がいること。
思慮のない人から“ALL LIVES MATTER”という言葉が生まれていること。
スポーツ選手が政治的発言をすることは見当違いであると批判する者がいること。
スポーツ界隈のボイコットは大金を貰っているアスリートだからできることで、なにかを犠牲にしてまで正義(Racial Justice)を貫くというメッセージにはほど遠いと批判する者がいること。
日本においても、女子テニスの大坂選手がウィスコンシンの事件を受けて試合をボイコットしたことに対して、批判的な意見が出ていること。

これらはすべて、「無知」であり、本質的に「無関心」であるから言えることなのかもしれない。

私たちが目を向けなければならないのは“そこ”じゃないんじゃないか。

BLMの概念そのものや昨今のMovementは、最近のごく一端から生じたものではなく、私たちが想像できるよりも遥か昔から根付いている「黒人たちが虐げられてきた歴史」そのものである。

それを変えるため、この問題を理解し、前に進むために何かアクションを起こすことに、間違いは一つもないはずだ。

アクションの表面だけに着目し、ああだこうだ言うのは、この問題を軽視しているに過ぎないのかもしれない。

「何をするか」と、「なぜするか」という問題は、分けて考える必要があるのかもしれない。

差別的措置をした警官を逮捕しても、警察組織を改革してもなお、この問題が簡単に解決するようなものではないのかもしれない。

職域にまで差別的なmindをもたらしてしまうのは、なぜか?

メディアの取り上げ方は適切なのか?

どこまで改革をすれば、「根本的な解決」と呼べるのか?

なぜ何百年の間、こうした運動・活動が続けられていたのにも関わらず、なぜ今なお苦しむ人がいるのか?

「かもしれない」しか言えないうちは、自分の口で「黒人たちが虐げられてきた歴史」や「奪われた命」を語ってはいけない…。

「知った」私ができることは。

「悲惨な状況が、息苦しい状況が、今もなお続いている」。

そのことだけでも知っているからには、何かアクションを起こさなくてはならない。何もしないのは、「無関心」でいることは、Racistであることと同じだ

アクションを起こすためにまず、学ばなければならない

何があったのか。何がそうさせているのか。

ただ哀れむだけは他人事

何か一つでも、前に進めないと。

メディアやソーシャルネットワークの発展も相まって、Movementの高まりは現代においては最高潮だという。本気で変えるなら今なのかもしれない。“この人たち”は本気でそう思っている。

本当に何か変化が起きたとき、「あぁ変わったんだ」で終わるのか、「自分たちが変えた」と思えるのかは、今自分にできることをやるかやらないかに懸かってる。

今もなお苦しんでいる人がいる。ずっと恐怖に怯えながら生きている人がいる。そして一緒に戦うべくして立ち上がってる人がいる、戦い続けている人がいる。何百年も。

「Black Lives Matter」と、自分の頭で、自分の口で言えるように。

その“事実”から目を背けないために、学ばなければならない。

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