“科学的な〇〇”
“科学的根拠に基づいた〇〇”
“実験で効果が証明された〇〇”
“有名大学教授も認めた〇〇”
ソーシャルメディアのみならず、テレビなどでも頻繁に見聞きするようになったフレーズ。
いかにも説得力があり、どこか“確かさ”が漂い、“正しい”情報に見えるこれらの科学的な情報は、本当に“科学的”なのであろうか。
Science ≠ Scienciness
“Scienciness”
こんな言葉がある。
日本語では“科学(的)っぽさ”、“科学風”とでも言えるでしょうか。

この言葉は、厳密な調査と測定から得られたエビデンスに基づく知識と実践(=Science)を遵守している科学者たちを否定するものではなく、それを二次情報として広めるメディアや科学へのリスペクトのない一部の専門家のことを揶揄している言葉です。
Burke(2017)は、健康に関するあらゆる科学的な情報は、一部のメディアによって研究結果が応用の範疇を超えて引用されており、それが人々の誤った習慣を引き起こしているケースがあるとしており、個人的にも、トレーニングや栄養、食生活に関しては特に、メディアのせいで誤ったトレンドを多く生み出していると、常々感じます。
あなたがよく目にするその情報は、本当に“科学的な”情報でしょうか?本来あるべき科学的な実験結果や洞察が、婉曲され、誇張され、取り繕われた、単なる“科学っぽい”情報ではありませんか?
論文を引用している ≠ 確かな情報
様々な情報が錯綜し、情報を受け取る側がその良し悪しを判断しにくくなっている現代。そんな時代だからこそ、その情報が“科学的な根拠に基づいているか否か”(あるいは、単なる“科学的”という言葉の有無)が、情報の質を印象付ける新たな基準となってしまっているように感じます。
ソーシャルメディアにおいて多くシェアされた50の健康関連の学術論文と、それがメディアプラットフォーム(CBS News, New York Times誌など)によってどのように引用されたかを調査した研究 (Haberら, 2018)では、そんな昨今のトレンドがいかにして“科学っぽさ”を世に送り込んでいるのかを示しています。
この研究では、
- ソーシャルメディアでシェアされている学術論文の中で、そもそも強い因果関係を示していた研究はごくわずかであった(4%)
- 学術論文の中で使用されている表現は、因果関係の推論の強さをやや誇張する傾向があった(42%)
- それらに関するメディアの記事は、因果関係の推論の強さをさらに誇張し、研究特性や結果を不正確に報じている可能性があった(67%)

とされ、
そもそもメディア記事がこぞって取り上げるような健康関連の学術論文は、科学的な視点から見ると、一般的に応用が可能なほどの実験結果は見出せていないにも関わらず、あたかもそれらが“決定的な証拠”のように扱われ、誇張され、一般視聴者に届いていしまっているということが示唆されています。
(2.)のような科学者側の課題はここでは置いておいて、学術研究の結果が一般視聴者の元に届く一役を担っているメディアは、“科学的な”研究結果をどのように発信するかを、もっともっと考えなくてはなりません。

曖昧さ、無慈悲さこそ科学
もちろんメディア業界の人々はそれで飯を食っているわけですから、視聴率が稼げるような記事を書かなくてはならないのだと思いますが、その過程で科学的な文献を引用するために自ら敷居を超えるのであれば、誰であろうと科学の郷に従わなければなりません。
学術的な研究、特に人(ヒト)を対象にした研究においては、強力な因果関係の推論を行うには数多くの課題があります。ですから、いくら有名な学術団体や、厳密にコントロールされた実験であっても、「〇〇をすれば→必ず〇〇が起こる(可能性が非常に高い)」というような因果を説明できるような実験結果は、健康分野に限らずそう簡単に見出せるものではないのです。そして同時に、強い因果関係を説明できているか否かが、その研究の価値を決めるわけでもないのです。
例え、有益と思われる実験結果が得られたとしても、たった1つの科学的な研究やソースから、一般的に応用が可能な範疇はそう多くはありません。だからこそ、科学者たちは世にある学術論文や研究結果に謙虚に向き合い、そして自ら見出した因果関係の可能性に対しても批判的にかつ慎重に検証しようと努めているのです。
科学は時に曖昧で、その曖昧さたる故に素人にとっては腑に落ちない情報に見えるのかもしれません。しかし、科学とは“そんなもん”なのです。科学者たちが何年かけて実験を重ねたとしても、その結果を一般社会へ適応しようとしたとき、“曖昧さ”が100%なくなることなんてありません。
そんな時、この“曖昧さ”や望みにそぐわない“無慈悲さ”に耐えきれずに、少しでも乱暴に扱おうものなら途端にそれは“Scienciness-科学っぽい”情報に変わり、その価値は限りなく0に近づいてしまうのです。

個人の信条や経験が、“データ”として拡散される
メディアや一部の専門家による誤った解釈を導くような情報については、Burke(2017)も警鐘を鳴らしています(原文をぜひ読んでください)。
あたかも“科学的っぽい”健康行動のススメが拡散されてしまう前提として、
スポーツや健康、運動や栄養といった分野は、科学であると同時にすべての人にとって普遍的な実践でもあるため、多くの人が自分の経験や信条をデータとして、あるいは他の人が従うべきテンプレートとして広める権利があると感じてしまっていることが挙げられています (Burke, 2017)。
情報が溢れんばかりの現代だからこそ、人々は簡単に実践でき、より近道となるような情報を無意識のうちに求めてしまいがちです。そして自分の信条や望み(あるいは時代のニーズ)に合う、都合の良い情報に出会った暁には、それを二次情報あるいは三次情報として安易に拡散してしまうのです。
メディアや一部の専門家は、そのような視聴者を上手くを餌にして、情報そのものの質よりもその情報をいかに簡単に、都合良く伝え、拡散させるかということに躍起になっています。

科学者 ≠ 実践者
ソーシャルメディア上に蔓延る“科学的っぽい”情報の原因の一つとなっているのが、科学に基づく思考のトレーニングを積んでいない専門家であり、彼らが名声や注目のために学術的な一次情報の因果関係や研究の趣旨を捻じ曲げ、素人相手にあたかも真実かのように伝えていることです。
博士号(PhD)を持っている、プロでの指導経験がある、日本代表の帯同歴がある、大会の優勝歴がある…。プロフィールに書いてあるその一行だけで、素人はその専門家を謳っている人々の言葉を、“世の中の正解”として見てしまう可能性があるのです。
しかし、いくら華やかな経歴を持っていようと、そのプロフィールはその人が学術に対する謙虚で批判的な思考を学んでいるか否かを証明するものではありません。科学的な思考のトレーニングを積んでいない専門家は、いくら優秀なキャリアがあろうと科学者ではなく、単なる実践者に過ぎないのです。

“単なる実践者”の言う、科学的根拠や過去の成功例は、「これとこれ比べてみたんだけど、こっちのほうが良かったわ!」という、一個人の意見(経験則)と何ら変わりません。そして個人の経験は、すべての人に同程度当てはまるとは限らないのです。批判的な思考を持たずに科学的な情報を安易に“自分のもの”として拡散してしまうことは、専門家としてあってはならないことです。
専門家という肩書きが持つ“情報の優位性”を忘れてはいけない
専門家によって頻繁にソーシャルメディア上にシェアされる現場での指導例(競技スキルやトレーニングや栄養)に関しても同じように注意が必要だと思っています。
極端な言い回しを使っていないとしても、ひとたび“専門家(あるいは実力者)からの発信”というフィルターを通してしまえば、「これだけやっていれば強くなる。」「有名アスリートはこうしている。だからこれをやるべき。」「みんながやっていることは間違い。これをやらなきゃだめだ。」というような、単調で都合の良い伝わり方をしてしまう可能性を含んでいるということを、肝に銘じておかなければなりません。
専門家が一般人と比較して、知識や技術、経験で優れていることは当たり前です。科学的な情報を含んでいないとしても、見ている人にとっては“専門家からの発信”というだけで情報の優位性を持ってしまっていますから、その分自らの発言には十分責任を持たなければならないのです。

ソーシャルメディア上の“しがらみ”
Burke(2017)は“科学っぽい”情報が蔓延するこの状況に対し、何も言おうとせず、放っておくだけなのは、時に論文が誤って引用されることよりも悪いことであるとも綴っており、科学者自身も時代に合わせてコミュニケーション・プラットフォームをうまく利用し、根拠のない情報を指摘し議論をしていくことで、積極的に存在感を示す必要があることを説いています。
しかし、先に述べているように、科学を一般に応用可能な範囲で言語化すると、ひとたび曖昧さが含まれてしまいます。あるいは、字数制限があるような大抵のメディアプラットフォームの中においては、短い文章にまとめようとした途端、意図せず“Decisive”(決定的)な文面になってしまうこともあるでしょう。

そんな曖昧さあるいは決定的な文面は、強い信条や願いを持って情報を収集する素人にとって、ほとんどの場合“腑に落ちない”情報か、いかにも“唯一の正解”であるかのような情報として受け取られて終わってしまうかもしれないのです。
科学が持つ“曖昧さ”や“無慈悲さ”というのは、一定の一般視聴者にとっては到底受け入れられないことだってあるでしょう。ですから、議論の中で、そもそも科学の畑に生息していない素人に対して、専門家が意図せずにネガティブな印象を与えてしまうことは、ある程度覚悟しておかなくてはならないかもしれません。
ソーシャルメディア警察
しかし、“科学的な”議論ができないことに耐えかねて、素人相手に知る由もないとりあえず“難しそうなこと”を言って、隅から隅まで科学を押し付けようとする行為は、また別の話です。

残念ながら、昨今SNSではこうした専門家が一定数見受けられる気がしますが、彼らは単なる“ソーシャルメディア警察”に過ぎず、事故を防ぐことをせずに一時停止違反を隠れてひたすら待つような警察のように、根本的な問題の解決には貢献していないと思うのです。
専門家の知識や経験に裏付けされた“情報の優位性”は、時に武器となり得ます。専門家がソーシャルメディア上で素人(また科学的な思考ができない専門家)と議論を交わす際には、このことを頭に入れつつ、その“科学的な”武器を上手く使いながらも、どれだけ一般視聴者やメディアと目線を合わせられるかが大切なのだと思います。
現場で生きる指導者にSNSは必要なのか
例の如く、今回のテーマは「Current Issues of Strength and Conditioning」というユニットでのディスカッションからインスパイアされたものです。
このユニットに限らず、院の教授は事あるごとに、「自分のソーシャルメディアを華やかにする時間があるなら、その分自分の現場スキルを磨け。」と言っています。それだけ、我々指導者にはやらなくてはいけないことがたくさんあるということです。
本当に現場にCommitしている指導者であれば、頻繁にソーシャルメディアに顔を出ほどの余裕はないはずなのです。教授の言葉を借りれば、現場でしっかりと活躍している指導者ほど、彼らのソーシャルメディアは“静か”に違いありません。
となると、我々現場に生きる指導者は、自身の“Crafts”(プログラム、指導法、実績など)をソーシャルメディアに投稿する必要はあるのでしょうか?
おそらく、ないでしょう。少なくとも私はそう信じ始めています。
誰に、何を提供することが我々のやるべきことなのでしょうか?ソーシャルメディアでフォロワーを獲得するために生きることが我々の仕事ではありません。現場で、チームや選手の目標のために生きることが我々の仕事です。
今目の前にいるチームや選手は、我々の日々の取り組みを、SNSのフォロワー数で評価しているのでしょうか?そのようなSNSのステータスで、指導者としての能力がわかるのでしょうか?

SNSで自らの承認欲求を満たし、架空の自分を作ることに時間を使うよりも、現場での知恵、実践、研究を積み重ね、選手がもし錯綜する情報に触れたとき、いつでも私のもとに戻ってくる、そんな指導者にならないといけない、そう思っています。
思考のきっかけを与えるのが専門家
正直、ソーシャルメディア上でも現場においても、「これやれば絶対強くなる。」「これやれば必ず良くなる。」そんなセリフを常々言えたらどんなに楽だろうか、と思うこともありました。そんな決定的なセリフは、お金にも繋がるんだろうという葛藤もありました。実際に、科学を捻じ曲げて“科学っぽい”情報を何も気にせずに拡散し、評価を得ている指導者に羨みの感情を抱いたこともあったかもしれません。
しかし、自分自身がどこで生きたいのかを考え、少なくとも学ぶことをやめなければ、明確に、それは自分がやるべきことではないと自信をもって言えるようになりました。
我々のやるべきことは、「これをやればいい方向に行く可能性が高い。現存する科学や現場の知を集積して今考えうる最善はこれだ。」と、謙虚に科学と向き合い、実践知を積み重ね、可能であれば自らそれを研究し検証し続けることだけです。(現場と科学の狭間で“Dance”する)
もちろん、優秀な経歴や学識を持っており、それに見合うだけの“科学的な”思考と実践を愚直に続けている方も何人もいます。そんな人たちがシェアする情報や意見は大変有益なInsightを与えてくれることが多いです。
そのような人たちがシェアする文面やスタンスだけを見れば、曖昧な表現も少なくないでしょう。しかし、決して“答え”や“解答”を突き付けない、そんな曖昧さや“含み”(Ambiguity)こそが、見ている人に思考のきっかけを与え、一次情報へといざなうような発信となり得るのだと思います。
専門家がソーシャルメディアで生きる際に唯一可能な“科学的な”アプローチはそんなところだろうと、現時点では信じています。
私は“Scienciness”な情報の発信源だったかもしれない(あとがき)
実際、スポーツ現場とは関わりのない、開業したトレーナーやフィットネストレーナー、パーソナルトレーナー、治療家なんかは、SNSを有効に活用し集客に繋げなければならず、華やかなプロフィールや説得力のありそうな経歴をいかに上手く載せられるかも仕事のうちなのかもしれません。
しかし、現場で働く我々が躍起になって取り組むべきことではありません。
恥ずかしながら私も、学術論文を引用し、パフォーマンスや怪我予防に関する情報を自分のSNSに投稿していた時期がありました。
もちろん批判的な思考を持ち、決定的な書き方は避けていたつもりではありましたが、投稿に対して「すごい!今度やってみます!」「わかりやすい情報ありがとうございます!」など、リプライやDMをいただくこともありました。
今思えば、それこそ、専門家から発せられる“科学的っぽい”情報そのものだったのかもしれません。その投稿内容が、限りなく事実に近かったとしても、私がやるべきことではなかったと、今確信を持って言えます。何であんなに必死になっていたかわかりませんが、指導者は、現場でもソーシャルメディアでも、自分がいかに優れているのかを他人に示す必要などこれっぽっちもないのです。
現実的には、AI技術の発展によって“Fact Checker”のようなものがソーシャルメディアのプラットフォームに導入される日もそう遠くはないと感じています。現に、今の大学院のプログラムのあらゆる課題は、提出時に必ず自動的にそのようなAIに通され、メディアから学術論文、書籍に至るまで様々な現存する情報との相互性を割り出し、盗作の防止として一次評価がされています。
おそらく、ソーシャルメディアに応用するとなると、言論の自由等に触れてしまう可能性もあるのでそこまで厳密に管理することは難しいかもしれませんが、何らかの形で“Fact Check”が行われ、(あるいはそのような職業が確立されることもあるかもしれない)科学者たちのもどかしさや、一般視聴者への誤った情報提供も減っていくのではないかと思っています。
Burke, L. M. (2017). Communicating Sports Science in the Age of the Twittersphere. International Journal of Sport Nutrition and Exercise Metabolism, 27(1), 1–5. https://doi.org/10.1123/ijsnem.2017-0057
Haber, N., Smith, E. R., Moscoe, E., Andrews, K., Audy, R., Bell, W., Brennan, A. T., Breskin, A., Kane, J. C., Karra, M., McClure, E. S., Suarez, E. A., & on behalf of the CLAIMS research team. (2018). Causal language and strength of inference in academic and media articles shared in social media (CLAIMS): A systematic review. PLOS ONE, 13(5), e0196346. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0196346